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項目構成
プロローグ; 縄文・弥生・古墳時代の美術; 飛鳥・白鳳時代の美術; 天平時代の美術; 平安前期の美術; 平安後期の美術; 鎌倉時代の美術; 室町時代の美術; 桃山時代の美術; 江戸時代の美術; 近現代の美術
仏教彫刻においても和様は静かに熟成していった。木彫は従来の一木造にかわって本格的な寄木造が成立する。寄木造は大型の造仏を容易にし、分業によって大量の注文にもこたえられる、経済的にも効率の高い大きな技術的革新であった。 道長の法成寺造営のおり、九体阿弥陀像を制作した仏師が康尚(こうじょう)である。彼は和様化の展開に大きな役割をはたした仏師とされるが、康尚作と推定できるものは同聚院不動明王像のみである。平安前期の密教の憤怒相の激しさはやわらげられ、穏和な作風は和様の進行をしめすものである。この康尚の子で、法成寺の造仏にも参加したのが和様彫刻の大成者、定朝である。平等院鳳凰堂阿弥陀如来座像は定朝晩年の1053年の作で、完成された寄木造によって生みだされている。中国の直接的な影響はここにはなく、その穏和な相貌、優美な衣文、誇張のない自然な姿は完璧な調和のうちにある。堂内長押(なげし)の壁面をかざる一群の雲中供養菩薩像も、定朝とその工房の制作である。 定朝のきずいた様式は後継者をえて広がり、定朝様として規範化されていった。そこからは院派と円派、奈良仏師の系統が生まれ、3者とも定朝様をつたえていく。定朝様に属する作品には、浄瑠璃寺本堂の九体阿弥陀像、11世紀末の法界寺阿弥陀如来像、12世紀の法金剛院阿弥陀如来像などがある。いずれも貴族的な趣味にこたえる繊細な作風であるが、以後は次第に形式化にかたむいていった。その中で長岳寺阿弥陀三尊像はボリューム感にとみ、表情も個性的で類型化をまぬがれている。作者は奈良仏師の系統とされており、その清新な表現は奈良仏師の系譜がやがて鎌倉彫刻の新様式をきりひらいたことを考えるとき象徴的である。また平安時代の最末期に属する作品に円成寺大日如来座像があるが、作者は若き日の運慶である。
平安後期は仏画の最盛期であった。11世紀の作例に平等院鳳凰堂の扉絵や青蓮院「不動明王二童子像(青不動)」、金剛峰寺の「仏涅槃(ねはん)図」などがある。このうちはじめて本格的な来迎図を主題とした鳳凰堂扉絵は仏画ではあるが、四季の風物が抒情的に描きこまれており、初期のやまと絵のようすを想像することができる。その意味では広がりのある風景を表現した東寺伝来の唐絵「山水(せんずい)屏風」の存在も貴重である。12世紀前半の仏画には装飾性豊かな「十二天像」(京都国立博物館)、明王としてはむしろ優美な東寺の「五大尊像」があり、「普賢菩薩像」(東京国立博物館)の工芸的な精緻をきわめた表現は耽美的とさえいえる。12世紀の後半の醍醐寺の「訶梨帝母像(かりていもぞう)」には宋画の影響もみられ、装飾性をおさえて自由な線描が駆使されている。また、高野山有志八幡講十八箇院の「阿弥陀聖衆来迎図」は、装飾性と律動感にあふれる大画面の作品である。 院政期に入ると成熟した王朝文化を背景に世俗画の台頭がめざましくなった。すでに物語文学の流行は宮廷女性の好みを反映したロマン情緒豊かな「女絵」を成立させていたが、その最高の表現が12世紀前半の「源氏物語絵巻」(徳川黎明会・五島美術館)に結実している。源氏物語の各場面の絵にそれと対応する詞書(ことばがき)が挿入され、各場面は構図的に完結している。人物は特徴的な引目鉤鼻(ひきめかぎばな)という型によるが、情感と心理の綾の微妙な表現に成功している。さらに装飾的な感覚をしめすものに「寝覚物語絵巻」(大和文華館)がある。 こうした耽美的な物語絵巻に対して、絵巻の形式を生かして物語を連続してつづっていく説話絵巻にも、「伴大納言絵巻」(出光美術館)や「信貴山縁起絵巻」(朝護孫子寺)などの大作が生まれている。ともに生動感あふれる線描によって、劇的に、ときに卑俗な情景もまじえながらストーリーをまとめあげる筆力は比類がない。ほかに絵巻では高山寺の「鳥獣戯画」の動物を擬人化してユーモアをたたえた異色の表現があり、一方には浄土教の思想の中からあらわれてくる地獄草紙、餓鬼草紙のグロテスクな表現がある。それはまた末法の社会の現実と人間存在をみつめたリアリズムでもある。
平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂内陣はさまざまな工芸技術を駆使して生まれた総合的な装飾空間である。とりわけ金色堂内陣の絢爛たる蒔絵(まきえ)、螺鈿あるいは飾り金具の豊饒さは圧巻といえる。蒔絵の「片輪車螺鈿蒔絵手箱」(東京国立博物館)は、流水に牛車の車輪がうかぶ抒情的な作品で、その優雅な形体とともに王朝の美意識の粋を感じさせる。時代末期の厳島神社の古神宝「松喰鶴小唐櫃(からびつ)」には、黒漆の地に金銀の研出(とぎだし)蒔絵がほどこされている。文様は中国の花喰鳥文が和様化したもので、平安貴族の間でこのまれたものである。金工で和様化がすすんだものが和鏡で、一群の羽黒鏡は日本的な花鳥の意匠を優雅にあらわしている。書と料紙装飾の一体となったものに西本願寺本「三十六人集」があり、技巧をつくした華麗な料紙に仮名が絶妙に調和している。平安後期には貴族が写経をきそい、多くの装飾経が生まれた。「紺紙金字一切経(中尊寺経)」、四天王寺の「扇面法華経冊子」、平氏の王朝趣味への耽溺(たんでき)をしめす厳島神社の「平家納経」などがそれである。 なお、この時代の能書家に小野道風、藤原佐理、藤原行成がおり、三蹟といわれる。
この時代は1180年の頼朝挙兵のころから1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡するまでの約150年間である。中国からは宋の文化が流入して、平安期に完成した国風文化に刺激をあたえた。仏教美術は南都仏教の復興、浄土教関係の新興宗派の台頭、さらに禅宗がもたらされて活況を呈する。政治の舞台は武士の手によって鎌倉にうつされたが、美術においては京都の公家文化の影響力はいまだうしなわれてはいない。この時代、美術の新たな基調はリアリズムである。
1180年、平重衡の南都焼討ちによって東大寺、興福寺の伽藍と仏像の多くが焼失したが、その復興事業が建築界に新風をもたらすこととなった。興福寺は伝統的な和様によって再建されたものの、東大寺再建の勧進職をつとめた重源は、南宋の工人陳和卿(ちんなけい)をもちいて積極的に宋朝様式をとりいれていった。新様式は大仏様あるいは天竺様と称され、東大寺南大門、浄土寺浄土堂などがのこる。しかし力強い構造をもち、豪壮な印象をあたえるこの新様式は、従来の穏やかな和様との隔たりが大きく、重源の時代以後は部分的に和様に吸収されるかたちで短命におわった。大仏様の要素をとりいれた新和様は霊山寺本堂、長弓寺本堂などに典型的にうかがえる。 また禅宗の伝来とともに、禅宗様あるいは唐様とよばれる新様式がもたらされる。北宋の様式をつたえ、細部に装飾性が豊かなこの禅宗様は、鎌倉・建長寺をはじめとして13世紀中ごろに成立したと思われるが、鎌倉時代にさかのぼる現存例は山口・功山寺仏殿などわずかである。はやくも13世紀末ごろには、和様に大仏様と新来の禅宗様の装飾的細部をとりいれた折衷様が登場する。和歌山・長保寺本堂にその例がみられる。
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