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項目構成
プロローグ; 縄文・弥生・古墳時代の美術; 飛鳥・白鳳時代の美術; 天平時代の美術; 平安前期の美術; 平安後期の美術; 鎌倉時代の美術; 室町時代の美術; 桃山時代の美術; 江戸時代の美術; 近現代の美術
すでに鎌倉時代から禅宗寺院には水墨画を中心とする宋元画がもたらされていたが、これらの中国画の影響から、従来の唐絵とはことなる宋元画風の漢画の伝統が形成されていく。南北朝時代、初期の水墨画を代表する人々には、鎌倉末期に元にわたり、牧谿の再来といわれた黙庵、鉄舟、そして可翁ら一群の禅僧画家がいた。黙庵は「四睡図」(前田育徳会)などの道釈(どうしゃく)画とよばれる宗教人物画をよくし、彼らの作品の水準はすでに禅僧の余技の域をこえていた。それに対して、請来された宋元画をまなびながら、より専門化していく画僧たちがあらわれる。その中で応永年間(1394~1428)の前後に、東福寺の明兆は初期の室町水墨画を代表する巨匠として、彩色画をふくめて精力的な活動をしている。 この時代、禅僧の詩文による賛とむすびついた山水画、いわゆる応永詩画軸が五山の間で流行する。胸中の理想郷を書斎としてあらわした「柴門新月図」(藤田美術館)などはその典型的な例で、禅の公案を描いた如拙の「瓢鮎図(ひょうねんず)」(退蔵院)もこれにふくまれる。如拙は相国寺の画僧であったが、その伝統から登場したのが周文である。確実な作品はないものの、「水色巒光(らんこう)図」をはじめ水墨山水画の展開には重要な影響力をもち、その様式は長く規範とされた。 相国寺にあって周文の画系をついだ画僧雪舟は初期の画歴は不明であるが、不穏な京都をはなれて山口に大内氏の庇護をもとめたのち、応仁の乱がはじまるころ明にわたった。帰国後は「山水長巻」(毛利博物館)、実景描写的な「天橋立図」(京都国立博物館)、禅の説話を描く「慧可断臂(えかだんぴ)図」(斎年寺)など多彩な作品群を生みだしていく。そのきびしく構築された画面は室町水墨画のひとつの到達点である。 雪舟が都をはなれ地方に活動の場をもとめていたころ、京都で幕府御用絵師となったのが狩野正信、のちに漢画系の最大流派となる狩野派の祖である。禅の世界で展開されてきた水墨山水画の幽玄な気分は後退し、宗教的な感情は希薄だが、そこにはより現実的な空間があらわれている。その子元信はやまと絵の手法もとりいれ、その花鳥画の装飾性によって次の時代を予告している。室町中期から後期にかけて京都に形成された漢画の一派に阿弥派がある。これは足利将軍の側近としてつかえた同朋衆の能阿弥にはじまり、その子芸阿弥、孫の相阿弥とつづいた。彼らは画家として活躍したばかりでなく、書画の鑑定家として「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」をあらわして中国美術の格付けをさだめるなど、特異な存在であった。 雪舟という傑出した個性を別にすると、狩野派、阿弥派と水墨画はしだいに禅宗の理念からはなれていくが、室町末期、雪舟の水墨の系譜につらなる禅宗の画僧に、戦国時代の地方を遍歴した雪村がいる。その劇的な表現は室町水墨画中でも異色の、最後の輝きをはなっている。 一方でやまと絵の伝統は宮廷の絵所の中に生きていた。室町時代の後半、土佐光信は絵巻や肖像画、風俗画にも手をそめた宮廷第一の画家であった。 この時代のやまと絵の障屏画の画題には四季の景観をうつす「浜松図屏風」「月次(つきなみ)風俗図屏風」があり、新たな風俗画の題材として「洛中洛外図屏風」もあらわれてくる。これは次の時代、近世風俗画として花開いていく。また大坂・金剛寺の「日月山水図屏風」は密教の儀式にもちいられる山水屏風であるが、四季をおりこんだ蒔絵を思わせる濃密な装飾的空間は、紛れもなくやまと絵の伝統の中に位置している。
室町時代は水墨画において宋元画が第1位とみなされたように、工芸の分野でも宋元を中心とする唐物主義が優位を占めている。この時代に流行した茶の湯においても同様の事情で、宋の青磁や油滴天目(ゆてきてんもく)などの一級品が最上の茶器としてもてはやされていたが、村田珠光、武野紹鴎(たけのじょうおう)が出るにおよんで「わび」の理念が導入され、美意識に転換がもたらされた。備前焼や信楽(しがらき)焼など無作為の美をしめす日本製の茶器が侘茶の精神をあらわすものとされたのである。また茶の湯の流行とともに金工の分野では筑前の芦屋、佐野の天明(てんみょう)で茶の湯釜の優品が生まれている。刀剣では備前長船(おさふね)の流派が盛んで、刀装具には名門後藤家の祖である後藤祐乗が出ている。漆工で蒔絵に幸阿弥派、五十嵐派といった有力な流派が生まれたのもこの時代のことである。
彫刻は南北朝、室町を通じて木彫が主流である。京都では前代以来の慶派が勢力をたもち、その系統は七条仏所の名でつづいていくが、院派、円派はしだいにふるわなくなっていく。奈良においては椿井(つばい)仏所など小規模の流派の消長があった。一方、東国の鎌倉では宋風の様式が展開されている。しかし造仏活動そのものはまだ盛んにおこなわれていたにもかかわらず、鎌倉時代とくらべると仏像彫刻の創造的エネルギーの衰退は明らかである。わずかに禅宗の頂相などの肖像彫刻が気をはいていたにとどまる。なおこの時代、観阿弥、世阿弥によって大成された能から、仮面彫刻としての本格的な能面が生まれている。
桃山時代の美術は、将軍足利義昭がおわれて室町幕府がたおれる1573年から江戸時代の初頭、豊臣氏が滅亡する1615年(元和元)までをふくむ。歴史では安土桃山時代ともよばれ、戦国時代を統一した織豊、すなわち織田信長と豊臣秀吉が政権を掌握した時代である。近世へと移行するわずか半世紀にもみたない短い期間であるが、この時代の美術は戦国時代に準備されていたエネルギーがいっせいにときはなたれた美術の黄金時代であった。黄金—それは現世肯定的な桃山時代の華麗なイメージの基調をなすものである。
城郭建築のめざましい隆盛は美術全体に活気をもたらす。中世までの城は山地にかまえる防御的な性格の山城であるが、この時代の城は丘陵地帯にかまえる平山城、平地にきずく平城が主流となり、居住性にもすぐれた大規模な城郭建築が生まれた。そこでは天守という城の中心をなす高楼が特徴で、信長の安土城、秀吉の大坂城が代表的な例である。慶長年間(1596~1615)の最盛期には姫路城、彦根城などが続々と造営された。また秀吉が京都にきずいた聚楽第は武将の館の性格をもつ城であった。 社寺建築も復興期をむかえる。園城寺、東寺、北野天満宮などの復興があいつぎ、醍醐寺三宝院表書院や伊達政宗の瑞巌寺本堂などで書院造の大成をみるのもこの時代である。また霊廟建築として秀吉をまつる豊国廟は一部が琵琶湖竹生島の宝厳寺、都久夫須麻(つくぶすま)神社に移築されており、その華麗な装飾性は桃山美術の気分をよくうつしている。こうした豪華な空間が展開される中で、茶の湯は千利休の出現によって侘茶の精神性を深めて草庵の茶室に結晶する。利休の茶室は妙喜庵待庵がのこるのみであるが、主客が対峙(たいじ)する2畳という極小の簡素な空間の中には数寄(すき)、つまり風流をこのむ精神が凝縮されて生きている。その姿は城郭や書院の豪華な格式とは対極をなす静謐(せいひつ)の空間である。
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