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日本美術

日本美術 にほんびじゅつ
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北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」
項目構成
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絵画

絵画では金碧(きんぺき)障壁画の時代が到来する。力を誇示する天下人の大規模な城郭建築はそれにふさわしい内部の装飾をもとめた。力強く、しかも統一感のある明快な表現と主題。それを実現させたのが狩野元信の孫、狩野永徳である。1566年(永禄9)、24歳の永徳は大徳寺聚光院に巨木を中心にすえた躍動的な「四季花鳥図襖」を描き、新時代の到来をつげた。信長は彼に安土城の天守御殿の障壁画をゆだね、ついで永徳一門は秀吉の大坂城、聚楽第をも担当して桃山前期の様式を決定づけた。これら信長や秀吉のための障壁画は城郭と運命をともにして今はみることができないが、「唐獅子図屏風」(宮内庁)、晩年の「檜図屏風」(東京国立博物館)に重厚なその様式の完成をみることができる。

50歳間近で急逝した永徳のあと桃山後期の狩野派の伝統をつぐのは長男光信、弟子山楽らである。光信の表現は父永徳にくらべより抒情的なもので、永徳独自の威圧感は後退している。むしろ光信の作風に通じながら永徳の豪放な気風をつぐのは山楽であり、大覚寺宸殿(しんでん)の障壁画の諸作がそれをしめす。以後狩野派は一段と装飾的な画面構成にむかっていった。

永徳の天才がリードした前期にくらべると、桃山後期の画壇は狩野派以外の画家たちも頭角をあらわして、群雄割拠の観を呈してくる。わけても長谷川等伯が息子久蔵ら一門をひきいて制作した智積院の金碧障壁画は、巨木を軸にしながらも装飾的な意匠と抒情性を融合して、日本美術を貫流する特質をあざやかにしめしている。金碧障壁画とは別に、彼には水墨の「松林図屏風」(東京国立博物館)がある。それは彼のまなんだ牧谿とも室町水墨画ともことなり、日本の自然を日本の感性で描いた、おそらくはじめての水墨画である。海北友松は武家の出身で、彼もまた宋元画にひかれた。建仁寺本坊方丈に描いた水墨障壁画「花鳥図」のはげしい気迫は、武人にふさわしい雄渾(ゆうこん)な表現である。

漢画系の活躍に対し、やまと絵の本流土佐派はふるわなかった。だが、土佐の画系とははなれたところからやまと絵が復活する。京都の上層町衆の出身の俵屋宗達は、本阿弥光悦の書との競作で、金銀泥の華麗な料紙装飾の世界に卓抜な意匠感覚をふるった。彼は江戸期に入ると古典を自在に解釈する大画面にいどんでゆく。

平和を謳歌する時代の気分を反映するかのように、風俗画が台頭してくる。それは狩野派の画家たちがこの分野に新たに筆をそめたことからはじまった。狩野秀頼作「高雄観楓(かんぷう)図屏風」(東京国立博物館)は近世初期風俗画のはやい例であり、京都の街の景観をパノラマ的に描く「洛中洛外図」は、永徳筆とみられる上杉家本や舟木家本が桃山時代の作品である。さらに狩野内膳筆「豊国祭礼図屏風」(豊国神社)、狩野長信筆「花下遊楽図屏風」(東京国立博物館)は人々のファッションの細部までクローズ・アップしてみせる。南蛮趣味は風俗画に南蛮屏風と洋風画という異色の彩りをくわえた。南蛮屏風でも狩野派の画家たちが主導的な役割をはたしているが、ポルトガル人の風俗を主題としながら空間表現は西洋風ではない。一方の洋風画はキリスト教のセミナリヨ(神学校)の聖画像にはじまるもので、「泰西王侯騎馬図屏風」(神戸市立博物館)などの世俗的な作品には、きわめて空想的な異国趣味がもりこまれている。これはわが国最初の西洋絵画との出会いであったが、キリシタン禁制のために短命におわった。

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工芸

工芸の分野ではまず、侘茶の流行によって茶陶に大きな展開をみせた。京都では侘茶の精神を具現するものとして、千利休の指導によって長次郎が楽焼を創始する。美濃では瀬戸黒、黄瀬戸、志野織部がつくられる。また伝統の備前、信楽、伊賀でも茶陶の需要はまし、秀吉の文禄・慶長の役では朝鮮半島から陶工をつれてかえり、萩、唐津などの窯を開くことになった。利休好みの落ち着きのある長次郎の楽焼に対し、利休の門下で武将の古田織部(ふるたおりべ)の好みによる織部焼は「ひょうげもの」とよばれるゆがみ、ひずみの美を重視した大胆な意匠によって個性を主張している。金工でも茶の湯釜が盛んにつくられ、芦屋、天明(てんみょう)にかわって京釜が勢いをもち、利休の釜師として辻与次郎が出ている。武具では、兜(かぶと)にサザエや団扇をあしらうなど異形ともいえる奇抜な意匠がみられる。こうした造形は織部の作為のまさった表現にも通じるものがある。

桃山時代の漆工は高台寺蒔絵と南蛮漆器に代表される。前者は秀吉の夫人北政所が創建した高台寺の霊屋内陣を華麗に装飾したもので、黒漆に秋草の意匠の蒔絵は、北政所がもちいたという調度品にも同様にほどこされている。南蛮漆器は南蛮の風俗や十字架を意匠にあしらった新奇な異国趣味をしめている。染織では金銀の箔に刺繍をくわえた豪華な能衣装が制作され、辻が花染が誕生したのも前代末からこの時代の初期にかけてのことである。

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彫刻

あらゆる美術分野が活況を呈する中で仏教彫刻のみは表現も硬化して、ついに低迷から脱することができなかった。わずかに遠く運慶の系譜につらなる七条仏師の康正(こうしょう)に東寺の金堂薬師如来像の制作がある。この時代には建築を装飾する彫刻にむしろ自由な表現がみられる。

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江戸時代の美術

ここでは江戸時代の美術を豊臣氏のほろびた1615年のころから1867年(慶応3)、最後の将軍徳川慶喜が大政奉還するまでのおよそ2世紀半とし、それを前期・中期・後期の3期にわける。前期は最初の約100年間で、この中では寛永期(1624~44)と元禄期(1688~1704)に文化的な盛り上がりがある。中期は享保期(1716~36)にはじまる約90年間、後期は文化・文政期(1804~30)をふくむ幕末までの約60年間である。江戸時代は幕藩体制が確立され、鎖国令がしかれて、かつてない長期にわたる平和がもたらされた。その中で17世紀の末からは近世の町人の文化が花開き、また江戸は上方とじゅうぶんに対抗しうる文化的な土壌をきずいていった。

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建築

前期は桃山時代の遺風をついで装飾はさらに華麗さをまし、江戸時代を通じてもっとも充実した時期であった。前代に展開された書院造は、寛永期の二条城二の丸御殿や西本願寺書院において威厳と格式をそなえた完成の域に達する。霊廟建築では徳川家康をまつる日光東照宮がある。本殿・拝殿を連結した権現造(ごんげんづくり)とよばれる複合的な形態をもち、彩色、建築彫刻、飾り金具などの装飾の壮麗さは西欧のバロック様式にもなぞらえられる。寺院建築でも大規模な知恩院本堂や清水寺本堂などが造営されている。また禅宗の一派、黄檗宗(おうばくしゅう)の特異な寺院建築として長崎・崇福寺大雄宝殿、宇治・万福寺の諸堂がある。

一方では、宮廷貴族の別荘としていくつかの数寄屋風書院建築が誕生した。八条宮家の別荘、桂離宮は書院群と変化のある池庭がめぐらされ、そこに茶亭が点在する。内部の洗練された意匠、優雅な空間はしばしば東照宮の華美をきわめたスタイルと対照される。後水尾上皇の修学院離宮はさらに雄大な自然景観を生かした例である。

江戸中期以降の町人文化を代表するものに遊廓建築があり、京都島原の角屋(すみや)は内部装飾に斬新なデザイン感覚をしめしている。中期には諸藩の学校建築も盛んになってくる。はやい時期に属する岡山池田藩の閑谷黌(しずたにこう)はその代表的な例である。社寺建築も盛んな庶民信仰にこたえて大衆化する。長野の善光寺本堂は外陣を広くとり、土足のまま礼拝できる新しい形式の開放的な空間を生みだしている。

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