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さまざまな理由で選別された人々の集団を、拘禁するための施設をさす。通常、拘禁の理由は政治的であり、非人道的な条件のもとにおかれる。男、女そして子供も正式な裁判なしに拘禁され、収容期限もきまっていない。収容施設として兵舎、小屋やテントなどが使用され、その周囲は監視塔にかこまれ、有刺鉄線によって外界から仕切られている。強制収容所には、ほかにもいくつかの名前がある。たとえば、矯正労働施設、思想改造施設などである。第2次世界大戦では400万人以上がドイツの強制収容所で死亡したが、歴史上ほかの収容所もあった。
欧米では、強制収容所が戦争時や国家非常事態時に、何度もつくりだされている。たとえばイギリスでは、王室に対して忠誠的ではないと思われる市民や敵国からの避難民を収容所に抑留するために、政府は1939年に防衛規則を使用した。アメリカでは、第2次世界大戦中に大統領行政命令によって、7万人の日系アメリカ人と4万2000人の在留日本人を、西海岸からマンザナーなどの内陸の収容施設へ移送する権限を軍にあたえた。
ソ連では、ボリシェビキが1918年に、反革命の嫌疑をかけた人々を収容するためのラーゲリ(強制収容所)を創設した(→ ボリシェビズム)。20年代には、「階級の敵」や犯罪者が、北部特別目的収容所に収容された。30年代および40年代には、矯正労働収容所のシステムがソ連全土をほぼおおいつくし、何百万人もの人々をうけいれていくこととなった。ここに収容された人々は、クラークとよばれる自営農民、大粛清の犠牲者、39年にソ連邦に併合されたポーランドやバルト海沿岸地域の領土から強制移住させられた人々、国家に対して忠誠的ではないとみなされていた人々、枢軸国側の捕虜、ドイツの捕虜となり帰還したロシア人などであった。 何百万もの収容者たちは強制労働させられ、シベリアの開発、白海とバルト海をつなぐ運河やモスクワとボルガ川をつなぐ運河の建設などを達成するために、無数の収容者の命がうしなわれた。
ドイツでは、1933年1月30日にナチスが政権をにぎった直後に、強制収容所が設立されている(→ ナチズム)。ゲシュタポ(政治警察)が、共産党員、社会主義者、宗教者、エホバの証人、ユダヤ人など政治的敵対者を「保護する」という名目で監禁した。また、クリポ(刑事警察)は、常習犯罪者、ロム(ジプシー)、同性愛者、売春婦など、いわゆる非社会的集団を「予防的逮捕」と称して拘留した。収容所の運営は、親衛隊(SS)の保安部が、残忍な軍隊式の規律にもとづいておこなった。30年代に、ダッハウやザクセンハウゼンなど6つの大きな収容所が設立され、39年には、約2万5000人が収容されていた。 第2次世界大戦中、収容所は規模の面でも数の面でも大きくなっていった。アウシュビッツやマイダネクなどの重要な収容所が占領地に新たにつくられた。そして、ドイツの占領下にあった国々から、数百万人もの人々がこれらの強制収容所におくりこまれた。ユダヤ人やソ連兵捕虜、そして強制連行された外国人労働者たちである。収容者たちは、過酷な労働を強制され、はたらくことができなくなると毒ガスなどの方法で殺されていった。また、収容者たちは、「医学的な実験材料」としても活用された。1945年初頭には、収容所の人口は、70万人をこえていた。 ナチスは、第2次世界大戦中に、アウシュビッツとマイダネクをはじめ、ポーランド東部のベウジェツやソビブルなどの強制収容所の中に、絶滅収容所もつくっている。600万人以上の人々が、ナチスの収容所で死亡し、その大部分はユダヤ人であった(→ ホロコースト)。
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