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生産手段の私的所有と私的管理、自由な商品交換という資本主義社会のあり方に対抗して、生産手段の社会的所有と共同管理、計画的な生産と平等な分配を原則とする社会のあり方をもとめる思想(社会主義思想)と運動(社会主義運動)、さらに、典型的には社会主義革命の結果として成立するそのような原理にもとづく社会体制(社会主義体制)をさす。生産手段の社会化に立脚する社会のあり方としては、「共産主義」とよばれるものもあるが、これと社会主義との関係は、一般に広義の共産主義社会の低い段階にあるのが社会主義社会であるとされている。 社会主義は、このように多義的な概念であるので、これを論ずる場合には思想・運動・体制の各側面にわける必要がある。以下では、まず社会主義思想の展開を概観し、ついで運動と体制の歴史を世界と日本についてみることとする。
社会主義の思想は、広義の共産主義の思想としてめばえ、古くは古代ギリシャの哲学者プラトン、16世紀初めのトマス・モア、そして18世紀の啓蒙哲学者たちの説いた理想社会(ユートピア)論にまでさかのぼることができるが、本格的に登場するのは、18世紀後半から19世紀初めにかけておこった産業革命以降のことである。 フランスのフーリエ、サン・シモン、イギリスのオーエンなど、この時期に登場した社会主義思想は「空想的社会主義(ユートピア社会主義)」とよばれるものであり、資本主義の悪弊に対して道徳的、倫理的な非難をむけ、資本家階級(支配階級)の善意に期待して搾取のない理想社会の実現をめざすものであった。この理想主義的な思想を批判的に摂取し、社会主義をより科学的なものに高めたのがマルクスである。 マルクスは1848年に、イギリスの古典経済学、フランスの空想的社会主義、そしてドイツ観念論哲学を源泉として、資本主義の現実についての科学的分析にもとづく新しい社会主義の思想である「科学的社会主義」をとなえた。マルクスの思想は、盟友のエンゲルスの思想とともに「マルクス主義」という名で、その後の社会主義思想のモデルとして継承されることになる。 マルクス、エンゲルスがえがいた社会主義像の大要は、以下のとおりである。労働力は商品ではなくなり、労働力の所有者は同時に生産手段の共同所有者となる。生産者は、共有する生産手段に自分たちの集団的労働を直接充用して生産をいとなむ。資本が廃絶されるので、資本主義のように資本を増殖するために労働するのではなく、各人は能力に応じてはたらくことが原則となる。人間による人間の搾取が廃絶され、労働の成果は生産手段の共同所有者である勤労者に帰属する。剰余価値の生産を目的としていた資本主義生産にかわって、生産は、社会の成員の物質的欲望を最大限にみたすためにおこなわれる。資本主義社会におけるような無政府的、非組織的な生産ではなく、計画的、組織的な生産がおこなわれる。
次に、社会主義の運動の側面をみてみよう。社会主義運動は、なによりも労働者を主体とする階級闘争のかたちをとって展開してきた。 その最初のものは、1864年に結成された「国際労働者協会」(「第1インターナショナル」)の運動である。この組織はマルクス、エンゲルスの共産主義路線とバクーニン、プルードン派らのアナーキズム路線の対立により、76年に解体する。 ついで1889年には、「第2インターナショナル」が結成されるが、この組織は国際的な社会主義運動の指導部というよりも、ヨーロッパ社会主義の議会のような性格のものであった。社会主義運動は各国で独自の路線をとるようになる。第2インターナショナルも、第1次世界大戦の前夜に弱点を露呈し、労働者階級の国際的連帯というスローガンを放棄して戦争協力路線にはしることとなった。 いっぽう、ロシアでは、第2インターナショナルの崩壊を目の当たりにしたレーニンが1917年の十月革命により政権を奪取し、「社会民主労働党」の名を「共産党」とあらためたうえ、「コミンテルン」(「第3インターナショナル」)の結成を提唱した。このときレーニンが各国の社会民主党を労働者階級の裏切り者と批判したことから、社会主義勢力は共産党と社会党とに分裂することになる。 2度目の世界大戦ののち、社会主義運動はまたひとつの転機をむかえた。西欧の社会主義政党がマルクス主義と絶縁して改良主義にはしるいっぽう、東欧では社会主義国がロシア一国からこの地域全体にひろがり、社会主義圏が形成された。 アジア、アフリカ、ラテンアメリカにも社会主義がひろがった。これら第三世界の地域では、社会主義の思想が工業化のためのイデオロギーとして機能するという特徴をもった。第2次世界大戦後の社会主義は、このようにひとつの世界体制を形成した点に特徴があった。この社会主義世界体制と資本主義世界体制とのグローバルな対立関係が、いわゆる東西対立(冷戦)の構造である。 社会主義世界体制の内部では、依然として路線の対立がみられた。1948年に共産党・労働者党の情報連絡機関としてつくられた「コミンフォルム」は、事実上、ソ連共産党を中心とする国際的指導機関に変質し、ユーゴスラビア共産党の除名問題をはじめとして、混乱をきわめることとなった。 1980年代末からはじまったソ連・東欧諸国の体制的崩壊は、こうした国際共産主義、社会主義運動の混迷の結果といえるが、この現象は、社会主義の思想・運動・体制の全般に対する根本的な問い直しの機運を世界的にもたらした。社会主義がこの試練をのりこえて再生することができるかどうかが、今するどく問われている。
日本における社会主義運動の展開は、欧米諸国の文化が導入された明治初期にはじまる。そして日清戦争(1894~95)後の産業の発達、資本主義化の進行にともない、1900年代には社会民主党など社会主義運動をになう政治結社が誕生した。さらに日露戦争(1904~05)前夜には、社会主義思想と反戦・反軍国主義の思想とが結合して運動が展開されるが、この動向は政府の危険視するところとなった。10年の「大逆事件」などにより社会主義運動は大きな打撃をうけ、「冬の時代」にはいることとなる。 第1次世界大戦後、近代工業の発展や工場労働者の増加、大正デモクラシーの風潮、さらにはロシア革命や米騒動の影響といった諸要因により、労働運動がふたたび高揚する。1922年には、コミンテルンの指導のもとに日本共産党が結成され、その綱領に天皇制廃止、普通選挙権などがかかげられた。同じく22年に日本農民組合が結成され、労働運動と農民運動とが結合するようになった。しかしこれらの運動も、治安維持法を武器とする政府の弾圧政策によりしだいにおいつめられ、31年の満州事変勃発(ぼっぱつ)以降は、散発的な反戦運動さえ困難な状況にたちいたった。 第2次世界大戦後の社会主義運動は、世界的な動向とも関連して新たな高揚期をむかえるが、日本が敗戦直後に占領下におかれ、さらにソ連などが参加しないサンフランシスコ講和条約により不正常な国家状態におかれたことから、革命路線のあり方などをめぐって、日本の社会主義運動は分裂と対立にいろどられることとなった。この傾向は現在までつづいており、唯一の科学的社会主義政党を自任する日本共産党と他の社会主義諸勢力との対立は、たとえば原水爆禁止運動などの国民運動にも影響をあたえつづけている。
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