関連項目
検索
エンカルタ内で検索 : カエサル,G.J.

Windows Live® の検索結果

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果

カエサル,G.J.

カエサル Gaius Julius Caesar
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

前100~前44 古代ローマ史上もっとも偉大とされる軍人・政治家で、帝政ローマの基礎をきずいた。英語読みはシーザー。

II

青年時代

旧貴族ユリウス氏の子としてローマで生まれる。伯父は民衆派(ポプラレス)の指導者マリウスで、元老院を支持する閥族派(オプティマテス)と反目していた。マリウスはコンスル(執政官)に7回就任したが、その最後の就任直前の前86年、閥族派の大量虐殺をおこなった。彼は青年カエサルが神官に任命されるようにとりはからったため、カエサルはマリウス派とみなされ、前84年にマリウス派コンスルだったキンナの娘コルネリアと結婚して、その立場をいっそうあきらかにした。

前82年マリウスの政敵で閥族派の指導者スラが武力で政権をにぎり、独裁官(ディクタトル)の地位につくと、処刑すべき敵対者の名簿を公表した。スラの支持者の助命でカエサルの名はのせられなかったが、コルネリアと離縁するようせまられた。カエサルはこれを拒否して東方の軍務にのがれ、前79年にスラが独裁官を辞任し、翌年死亡するまで、ローマにもどらなかった。

前78年にローマにもどったが、22歳の彼は役職につくことができず、ふたたびローマをはなれてロードス島にわたった。そこで弁論術をまなび、前73年ローマにもどると、雄弁な弁論家としてみとめられ、神官にもえらばれた。

III

三頭政治

スラから「大」の称号をあたえられていたポンペイウスは、スラ体制に反抗する民衆派の将軍セルトリウスをヒスパニア(スペイン)でやぶって、前71年にローマに帰還した。おなじころ、大富豪クラッススは、スパルタクスのひきいる奴隷反乱軍を南イタリアで鎮圧した。ポンペイウスとクラッススは、ともに前70年のコンスルに立候補した。当時ポンペイウスは、立候補資格をもたなかったが、軍隊の支持を背景にその地位を獲得し、クラッススもえらばれた。

前69年にカエサルは財務官に選任され、前65年には按察官(あんさつかん)に就任し、盛大な剣闘士競技会をひらいて民衆の喝采をあびた。この費用をまかなうためにクラッススの融資をうけたことで、両者は結束をかため、さらにポンペイウスもくわえて共同戦線がはられた。前60年に、1年間の属州ヒスパニア総督勤務をおえてローマにもどると、クラッスス、ポンペイウスとともに、第1次三頭政治として知られる同盟をむすんだ。この関係を強化するため、娘のユリアをポンペイウスと結婚させ、これらを背景に、前59年には閥族派に対抗してコンスルに選出され、翌年ローマの属州ガリアの総督に任じられた。

1

ガリア戦争

このころ、ケルト人が居住するガリア・トランサルピナ(現在のフランス地域)では、ローマと同盟関係にあったアエドゥイ族がヘルウェティイ族と対立し、総督に就任したばかりのカエサルに助けをもとめてきた。カエサルは6軍団をひきいてガリアにせめこみ、ヘルウェティイ族をやぶり、もとの地域においかえした。ついでアリオウィストゥスのひきいるゲルマン軍を粉砕して、前57年までにネルウィイ族を討ち、北部ガリアを支配下におさめた。前52年にはウェルキンゲトリクスのひきいるガリア人最後の蜂起があったが、これも鎮圧した。前後9年におよぶカエサルのガリア遠征で、ローマの財政がうるおっただけでなく、ガリア地方はローマ文化に接することとなった。

前のページ
|
次のページ
項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2008 Microsoft