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この時代のヨーロッパで唯一普遍的な組織は教会だった。しかし教会においても、権力はそれぞれの地域の司教ににぎられており、分散した状態にあった。たしかに教皇は、ローマ司教として使徒ペトロにつらなる権威をもってはいた。しかし教皇を頂点とする教会組織は、その後も500年間発達することはなかった。教会はキリスト教を信仰する人々のたんなる精神的な共同体でしかなく、キリスト教を真にささえたのはむしろ修道院だった。 ただし、こうした分散状態の中にあっても、典礼や暦、あるいは修道院の規則などを統一しようとする試みがなされなかったわけではない。またそれとならんで、ローマ帝国による統一的支配の記憶も保たれていた。そして9世紀になると、カロリング王家の台頭によって、ローマの遺産にもとづくヨーロッパの新たな統合がこころみられた。
初期中世の文化活動は、基本的には古代の知識を吸収し、体系化することにあった。古典作家たちの著作がうつされ、解釈がなされた。またセビーリャのイシドルスの「語源録」のような、百科全書的な書物も編纂された。さらにこうした学術的な活動の中心にあったのが聖書で、世俗的な学問はすべて聖書を理解するための準備とみなされた。 9世紀から10世紀になると、北からはバイキングが、またアジアのステップ地帯からはマジャール人が到来し、初期中世は民族の新たな移動によって終わりをむかえた。ここから生じた混乱によって、ヨーロッパの統合や拡大の試みも後退した。また土地はたがやされずに放棄され、人口も減少するなどして、文化はまたもや修道院の中にとじこめられることになった。けれども古代の知識を吸収しようとする努力の成果はうしなわれず、その結果、ヨーロッパはローマ文明にユニークなかたちで接(つ)ぎ木されたものとなった。
1050年ごろになると、ヨーロッパはそれまでになかったような発展期をむかえた。民族移動の時代はおわり、定住人口も飛躍的に増大して、封建制の浸透と拡大の一方でダイナミックな経済成長がみられるようになった。都市が復活し、商人ギルド、職人ギルドの活躍にともない大規模な商業も発展した。盛期中世の社会や文化は活力にみち、革新的なものであり、現代の歴史家はこの時代を「12世紀ルネサンス」ともよんでいる。
盛期中世の間、ヨーロッパでもっとも発達した統治機構をそなえていたのは、ローマ・カトリック教会だった。教皇は教会の絶対的な頂点に君臨し、イタリア北部や中部の領土を直接支配しただけでなく、外交や教会裁判を通じてヨーロッパ全土に指導力を発揮した。 またこのころには修道院も発展して、世俗社会と深くかかわるようになった。古くからあるベネディクト会も、封建社会の網の目にくみこまれた。また新たに創設されたシトー会は、耕地の開墾者として名をはせた。現世を放棄し、自発的な貧困に生きるフランシスコ会のような新しい運動も、じきに勃興(ぼっこう)する都市生活の中にくみこまれていった。教会はこうして、現世の中心に位置するものとなった。 また他方で盛期中世の宗教は、個人の内面に深く根ざすものとなった。たとえばキリストの人間性に対する感情的な同一化や、聖母マリアへの信仰などにも、キリスト教の内面化の動きがあらわれている。
学問の領域においても、新しい知的関心がめばえた。聖堂や修道院に付属する学校が発達し、やがて最初の大学も設立された。医学・法学・神学などの高度な教育もおこなわれるようになり、各分野で知的な探究がすすめられた。アラビア人によってつたえられた古代の医学書が再発見されたり、教会法やローマ法の検討もおこなわれた。こうした探究は、やがてスコラ学という学問の新しい方法論を生みだして、神学をはじめとするすべての分野で豊かな成果をもたらした。こうして12世紀は、ヨーロッパにおける哲学の偉大な開始をつげるものとなった。
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