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  • 地中海学会春期連続講演会─エトルリア文明

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  • エトルリア遺跡の町 SCAVI ETRUSCHI

    古代イタリアにおいて最も洗練されそして最も謎が多いと言われるエトルリア文明。ローマ人が共和政を樹立する以前の紀元前10世紀から紀元前6世紀にかけて、エトルリア人はイタリア中部に多くの主要な都市を築き、イタリア史上重要な一時期を形成 ...

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    トップページに戻る 「知の再発見」双書37 書名 エトルリア文明 ―古代ローマの支配者たち jp・テュイリエ著/青柳正規監修/松田廸子訳

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エトルリア文明

エトルリア文明 エトルリアぶんめい Etruscan Civilization
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

前1千年紀にイタリア半島でさかえた古代エトルリア人の文明。最盛期(前7~前6世紀)のエトルリアの勢力圏は、アルプス山麓(さんろく)からテベレ河畔におよんでいたとされる。その名はギリシャ語のテュレニアまたはテュルセニアのラテン語訳に由来し、古代ローマ人は、エトルリア人をエトルスキまたはトゥスキとよんだ。現在の地名トスカーナはこれに由来する。

エトルリア人の起源について、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、小アジア西部のリュディアから移住してきたと主張した。リウィウスやポリュビオスらの歴史家も、同じ考えである。いっぽうアウグストゥス時代のギリシャ人歴史家で、小アジア、ハリカルナッソス出身のディオニュシオスは、本来のイタリア土着民であると考えた。

考古学上の発掘によれば、初期のエトルリア人の定住地、トスカーナ沿岸地方のウェトゥロニアやタルクイニアで発掘された前9世紀末以降の墓からは、外国からの副葬品(琥珀:こはく、銀、金、エジプトの宝石加工)が発見されるなど、それ以前の墓とは様式などの点で、ことなった特色がみられる。こうしたことが、エトルリア人はオリエントからやってきたという東方起源説の有力な根拠となっている。

II

歴史

エトルリア人社会では、はやくから政治・軍事・経済・宗教上の実権をにぎった首長による支配がおこなわれていた。前6世紀までに、タルクイニア、ウェイイ(ベイオ)などの都市国家はそれぞれに地方支配をかため、さらに近隣の植民活動によって勢力を拡大した。エトルリア人でローマの王になったといわれるタルクイニウス・プリスクスとタルクイニウス・スペルブスをはじめとするエトルリア人都市国家の王たちは、おそらく軍事指導者として支配権をにぎったと思われる。これらの都市国家は、共通の政治的・経済的利害のためにエトルスキ連合とよばれる同盟をむすんだ。

しかしエトルリアは、前5世紀までにローマ人、ギリシャ人、カルタゴ人などの挑戦をうけるようになり、その勢力はおとろえていった。前474年のキュメ沖の海戦で、シラクーザはエトルリア海軍を徹底的にうちやぶった。陸上では、ウェイイがローマ軍による約10年にわたる包囲戦ののち、前396年に破壊された。その後、前3世紀前半まで、ローマによるエトルリア征服活動がつづいた。

前3世紀、ローマはすでにイタリア半島の中・南部の大部分を征服していたが、エトルリア進出をさらに強めた。カエレ、タルクイニア、ブルチといった都市は貢税を課され、領土を割譲させられた。当時エトルリアの諸都市では、貴族間の党派争いや下層民の反乱がおき、ウォルシニイのように破壊された都市もあった。いっぽういくつかの都市は、ローマとの同盟関係にはいった。

エトルリア人とウンブリア人ガリア人との反ローマ連合の試みは、前283年に打倒された。いっぽうローマと同盟をむすぶ都市がふえ、ローマのエトルリアへの影響が強まった。前1世紀初めの同盟市戦争により、ローマと同盟をむすんでいたエトルリアの都市もローマ市民権を獲得したが、その後におきたローマの内乱(前88~前86、前83)で支配権をにぎったスラは、マリウス派を支持したエトルリア人の都市を破壊し、国土を没収し、ローマ市民権をとりあげた。これによりエトルリアは荒廃したが、その後カエサルは、追放されたエトルリア人に土地をあたえ、占い師たちを重用した。

しかしカエサルの後継者オクタウィアヌスは、ふたたびエトルリア人の土地にローマ兵による植民をおこない、抵抗したエトルリア人たちを大量処刑した。皇帝アウグストゥスとなったオクタウィアヌスは、エトルリアのローマ化をおしすすめた。その結果、エトルリア語を話すことができる人々はとだえ、エトルリアの建築技術や陶芸技術はローマ文化に重要な影響をのこしたが、エトルリア文明の独自性は消滅した。

III

政治・経済

エトルリア人は統一国家を形成することはなく、有力貴族の家柄の首長によって支配される都市国家が分立していた。各都市国家は植民活動で近隣に勢力をひろげ、それぞれの利害関係からときには外国とも連合をむすんだ。

エトルリアには、一時北部、南部、中央部の3つの都市連合がつくられ、おのおの12の都市が参加していた。とくに重要なのは中央の都市連合であった。それはおだやかな政治・宗教上の連合体で、ラティウムのウォルシーニ湖(現ボルセナ湖)畔のウォルトゥムナ神殿で、1年に1度集会がひらかれた。この連合は政治より、むしろ宗教的性格が強かった。

中央都市連合を構成した都市については、リウィウス、ディオニュシオス、シチリアのディオドロスらの歴史家の記述から推測するほかには信頼できる史料はない。それによるとアレティウム(現アレッツォ)、カエレ(現チェルベテリ)、クルシウム、コルトナ、ペルシャ(現ペルージャ)、ポプロニア、ルセラエ、タルクイニア、ウェイイ、ウェトゥロニア、ウォラテラエ(現ボルテラ)、ブルチの諸都市が参加していたと思われる。これらの都市では、毎年ルクモとよばれた長官(王?)がえらばれ、各都市を統治した。

最盛期のエトルリアは強力な軍事力を保有していたが、おそらく諸都市間で軍事力の差があった。歩兵が軍隊の主力をなし、おもな武器は槍(やり)と斧(おの)で、斧は打撃のみならず、ときには投擲(とうてき)用武器としてつかわれた。また弓や投げ槍も使われた。エトルリア人の墓からは、しばしば矢や投げ槍が発見される。兜(かぶと)と盾にはさまざまな形があり、ギリシャ人やアルプス東部の部族が使用していたものの形がつかわれた。剣はあまりみられず、貴重だったようである。また騎兵も、エトルリアの軍隊の重要な役割をになっていたと考えられ、大きな墓の壁画からは、よく戦車の絵が発見される。エトルリアの海軍も強力で、ティレニア海を中心にして最盛期のほぼ2世紀の間、地中海を実質的に支配していた。

エトルリア人の支配地域では、鉄、銅、スズの豊富な鉱脈が存在し、鉱山業、製錬業が盛んで、これらの鉱物資源がエトルリア文明の繁栄の基礎をなした。前8世紀には、フェニキア人との交易が盛んとなり、フェニキア商人たちは未加工の鉱物の地金や木材、皮革などの原材料をもとめ、東方からの加工品と交換した。その後アエナリア島(現イスキア島)に植民したギリシャ人は、ここを拠点としてエトルリア人との交易活動を盛んにおこなうようになった。前7世紀にはコリント産の陶器が輸出されていたが、前6世紀末~前5世紀に、アッティカ産陶器の輸出が圧倒的となり、その中には著名な壺絵(つぼえ)作家の作品もみられる。アテネ人はとくに、エトルリアの青銅製品を重用した。前6世紀には、エトルリア人の交易圏は、今日のフランスやスペイン地域にまでおよんだ。

IV

宗教・言語

エトルリアの宗教については、直接の史料に欠けるため不明な点が多い。リウィウスやキケロによると、エトルリア人の宗教と生活に関するきまりは、3巻からなる「エトルリア戒律」にまとめられていた。第1の書「肝臓占いの書」は、犠牲獣の肝臓占いによる予言の書である(エトルリア人は肝臓占いだけでなく、鳥の飛び方をはじめ、さまざまな種類の前兆の解釈で有名だった)。第2の書「雷光占いの書」は、雷光による予言の術。第3の書「儀式の書」は、宗教のみならず、エトルリアの政治、社会生活上の規範に関する書である。神々の名前のいくつかは知られているが、おのおのの神の正確な役割は、よくわからない。後代のローマの作家によると、ローマのユピテルユノミネルバの諸神は、それぞれティニア、ウニ、メンルウァという名であらわされる。黄金時代の周期的循環という観念や人身御供の儀式(これが剣闘士試合の起源と思われる)など、エトルリア宗教の多くの要素が、のちにローマ人にうけつがれた。

エトルリア語は、ローマによる征服後すたれてしまった。ハリカルナッソスのディオニュシオスは、エトルリア語は他のどの言語とも似ていないとのべている。エトルリア語に関する知識は、ひじょうにかぎられているが、言語学上は、インド・ヨーロッパ語系の言語ではないと考えられている。現存するエトルリア語文書の大部分は墓碑名であるが、さまざまな解読の試みを通じて、多くの歴史上、宗教上の固有名が判読された。

エトルリアのアルファベットは、初期には26の文字がみられたが、後代には20の文字がつかわれた。ギリシャ・アルファベットをもとにつくられているが、語彙(ごい)や文法はまったくことなる。ローマ・アルファベットは、エトルリア文字からつくられた。最古のエトルリア語の文書は、前700年以前にさかのぼるが、文書の大部分をなす墓碑名からは、ほとんど特定の人物名しかよみとれない。現存する唯一の手書き文書は、現在ザグレブの博物館にある、12のリンネルの布片に書かれた典礼文である。これは、グレコ・ロマン時代のエジプトのミイラをつつむ布にしるされている。エトルリア語の文学作品は現存しない。

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