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  • イングランド国教会 - Wikipedia

    イギリス国教会 、 英国国教会 、 アングリカン・チャーチ 、聖公会とも呼ばれる。もともとは カトリック教会 の一部であったが、16世紀の ヘンリー8世 から エリザベス1世 の時代にかけて ローマ教皇庁 から離れ、独立した教会となった。

  • 英国国教会 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト

    英国国教会は英国に於けるカソリック教会です カソリック教会は離婚を認めません。昔、英国国王が離婚しました。カソリック教会の元締め、ローマ法皇は英国をカソリック教会から破門しました。気位の高い英国国王はカンタベリーに主教を置いて、自分達

  • 聖公会 - Wikipedia

    聖公会 (せいこうかい, Anglicanism, Anglican Church )は、 イングランド国教会 (Church of England) の 国教派 から始まる、 監督制 を認める キリスト教 の 教派 。 いくつかの国では監督派教会 (Episcopal Church) として知られるが、これはスコットランドがほぼ長老派に ...

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英国国教会

英国国教会 えいこくこっきょうかい Church of England
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

イギリスのキリスト教会で、アングリカン・チャーチともいう。発祥は、イギリスにキリスト教が伝来した当時にさかのぼるが、厳密には、宗教改革以降、カトリック教会から分離して、同地の国教とされた教派をさす。また広義には、日本をふくむ全世界の「聖公会」を意味するアングリカン・コミュニオンをさす。

イギリスでキリスト教会が組織されたことをしめす最古の記録は、3世紀初頭に活躍したテルトゥリアヌスやオリゲネスなどの教父の著作にみられるが、キリスト教徒の共同体はそれより数十年前から存在していたと思われる。314年のアルル教会会議にイングランドから3人の司教が出席したことがわかっており、また347年のサルディカ会議、360年のアリミヌム会議への出席も確認されている。4世紀の教父たちの文書には、ローマン・ブリテン時代の教会について、数多くの記述がある。

初期のイギリス教会の儀式と教義は、おもにケルト人の宣教師や修道士によってつたえられたが、597年にベネディクト会士アウグスティヌスの使節団がローマから派遣され、しばらくの間ケルトとローマの影響が混在していた。しかし、しだいにケルト色はうすれ、西方教会の儀式や慣行にかわっていった。つづく4世紀の間、アングロ・サクソン時代のキリスト教会の発展には、中世初期のほかの地域と同じ特徴がみられた。

1066年のノルマン人の征服以降、イングランドは大陸の影響をうけ、イングランド教会とローマ教皇との結び付きが強まった。11世紀末から13世紀初頭にかけて、教皇グレゴリウス7世からインノケンティウス3世の時代に、教皇権の拡大が強く主張され、ほかの地域と同様に、イングランドにもローマ教皇の支配がおよび、聖職者の権力と影響が世俗の問題にまでひろがった。中世のイングランド王は、教会の権力の拡大と、独立した教会法の行使をたびたびおさえようとしたが、ヘンリー8世の時代までその努力は成功しなかった。

II

国教の成立

1529~36年にかけてイギリス議会で可決された法令をみると、ローマ教皇の支配権から独立して英国国教会が国教として成立していく過程がよくわかる。ヘンリー8世は教皇クレメンス7世にキャサリン王妃との離婚をねがいでて却下されたことに怒りをもち、ローマ教皇の権限が英国国教会におよばないように、次々に法律を制定させた。こうしてヘンリーはキリスト教徒の王、すなわち絶対君主としての古来からの権利を確保し、領土内の教会の問題を統治する権限を行使した。教会と国家の関係を東ローマ帝国と9世紀までのカール大帝にならったのである。

ヘンリー8世の措置は革命的なものだったが、これが聖俗を問わずイングランド国民の圧倒的多数の支持をえたのは、それまでなれしたしんできたカトリックの信仰や慣行とそれほどかわらなかったからである。ヘンリーの死後、彼の宗教改革の影響はさらに強まった。1549年には「第一祈祷(きとう)書」が刊行され、礼拝統一法により、英国国教会の牧師はすべてこの祈祷書にしたがうことが義務づけられた。52年には、大陸のプロテスタンティズムの影響をうけた「第二祈祷書」が発行され、ついで同じような調子で教義をしるした「四十二カ条」が制定された。しかし、この2つはメアリー1世の即位(1553)とともに廃止された。メアリー女王は即位するなり、イングランドを正式にカトリックに復帰させ、1558年に彼女が逝去するまで、イングランドの教会は教皇の管轄下におかれた。

英国国教会とカトリック教会の争いは、1558年にエリザベス1世がメアリーの後継として女王に即位したとき、一応の決着をみた。ヘンリー8世時代の教会関係法の大半が復活し、国王至上法により教会における国王の権限が細かく規定された。また、再度の礼拝統一法で新しい「祈祷書」の使用がさだめられたが、これは「第二祈祷書」の度のすぎたプロテスタンティズムを抑制したものだった。エリザベス1世の時代に、ピューリタンが勢力をのばし、ジュネーブなど大陸中央のプロテスタンティズムにならって英国国教会の改革をさらに徹底させるよう要求した。

1603年にスチュアート朝最初のイングランド王ジェームズ1世が即位すると、宗教改革をもとめる声がスチュアート朝の絶対王政に抵抗する議会と密接にむすびつくようになった。45年には、議会派の勢力が強まり、「祈祷書」の使用を禁止するまでになった。さらに49年、イングランド王チャールズ1世が処刑されて共和制がしかれ、王制は一時的に廃止された(ピューリタン革命)。

1662年の王政復古によりチャールズ2世が王位につくと、「祈祷書」は実質的に現在の形に改定され、第3礼拝統一法でこれを使用することがさだめられた。つづくジェームズ2世は、カトリックの慣行をイングランド国内にとりいれようとしたため、英国国教会の成立はふたたび足どめされた。しかし、88年の名誉革命でジェームズ2世は廃位させられ、王位はウィリアム3世、メアリー2世へとうけつがれていった。

III

民衆の動き

17世紀以降、あいつぐ運動によって、英国国教会の教義も組織もかなり拡大した。18世紀に盛んになった福音主義の信仰復興運動により、国教に対する新たな信仰心が浸透し、民衆は伝道や宗教教育の重要性と、当時の宗教的・道徳的退廃に対するキリスト者としての責任を深く自覚するようになった。一連の運動でとくに重要なものは、ジョン・ウェスリーのひきいる一派で、彼らは英国国教会から分離してメソディスト派を創設した。

19世紀にオックスフォード大学の高教会派(ハイ・チャーチ)の聖職者を中心におこった、いわゆるオックスフォード運動は、宗教的遺産の中のカトリック的要素を重視し、英国国教会をカトリックに復帰させようとするものだった。これに対して、低教会派(ロー・チャーチ)の信仰と慣行はおおむねプロテスタンティズムに近く、秘跡とカトリック式典礼を厳守する高教会派の運動によって英国国教会がカトリックに傾斜しすぎるのをおそれた。

しかし、低教会派の反対にもかかわらず、高教会派のオックスフォード運動はひろがり、英国国教会の特色は変化した。あらためて宗教儀式の尊厳と美を強調するようになり、礼拝の中心としての教会を重視した。さらにこの運動によって、聖職者の使徒伝承的な特徴、秘跡、牧者の理想、基本的信条の意味などに関心が強まった。英国国教会内で低教会派の福音主義と高教会派のオックスフォード運動がともに発展したことは、同教会の信仰と慣行の伝統が幅ひろく、かつ柔軟だったことをしめしており、両派の傾向が長年にわたって共存してきたことにもそれがあらわれている。

また、19世紀末には低教会派と高教会派の中庸の立場をとる広教会派(ブロード・チャーチ)の運動もあった。この派の著名な会員にはイギリスの教育者トマス・アーノルドがいた。このようにたがいにことなる信条をいだく派が同時に存在したことで、英国国教会内にはしばしば論争と緊張がひきおこされたが、多くの信徒はさまざまな見方をあわせもつ幅の広さが同教会の神髄だと信じている。

IV

世界へ

アメリカにおける独立した聖公会の設立は、独立革命の時代にさかのぼる。当時、アメリカ大陸にわたった英国国教会のメンバーは、海をへだてた母教会にもはや忠誠をちかうことができなくなった。そこで、英国国教会を軸に数多くの派が創設され、アングリカン・コミュニオンとして知られるようになった。現在、イングランド、アイルランド、ウェールズの教会、スコットランドの聖公会にくわえ、分離独立した英国国教会系の教会がカナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、西アフリカ、中央アフリカ、南アフリカ共和国、インド、中国、日本、西インド諸島にある。これらの教会は世界各地で伝道活動をおこなっており、ことなる文化をもつ多くの人びとがアングロ・サクソン文化にしたしみ、同じ信仰と慣行でむすばれている。

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