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1948年になると主教マカリオスは、共産主義の影響をしりぞけながら、ギリシャ正教会の権威を回復するため、キプロスのギリシャへの帰属をもとめるエノシス運動を展開しはじめた。キプロスは戦略的に重要な位置にあるため、どのような譲歩もありえないとしたイギリスの態度は、反英テロをひきおこしていく。一方、トルコはキプロスのトルコ系住民の反エノシス運動を支援するとともに、もしイギリスが手をひくなら、キプロスはトルコに返還されるべきだと主張した。 1955年には、反英テロがさらに激化した。56年初めにイギリス行政府がマカリオス大主教とキレニアの主教をセーシェルに追放すると、混乱はますます悪化し、非常事態が宣言された。
1959年2月、イギリス、ギリシャ、トルコとキプロスの住民代表との間でキプロス独立に関するチューリヒ・ロンドン協定がむすばれた。同年3月1日にキプロスにもどってきた大主教マカリオスが、12月13日の選挙で大統領に選出され、トルコ系のキュチュクが副大統領にえらばれた。60年8月16日に正式に独立が宣言され、同年に国際連合(国連)に、翌年イギリス連邦に加盟した。 1963年にマカリオス大統領がトルコ系住民の権利を制限する憲法修正を実施したことから、ギリシャ系住民とトルコ系住民の間で衝突がおこった。トルコ系住民はトルコに軍事支援をもとめるとともに、国の分割を要求。島全土にくりひろげられた内紛はイギリス軍によって制圧された。64年5月には国連キプロス平和維持軍が派遣され、両系住民の間に緩衝地帯をもうけて治安維持にあたった。 国連の停戦呼びかけに応じて、1964年8月10日に内戦はおわったものの、ギリシャ系・トルコ系双方に不満がのこった。マカリオスは68年と73年に大統領に再選されたが、74年7月15日、エノシスを推進しないことに業をにやした軍人のクーデタで追放されると、ふたたび国内の緊張が高まった。トルコは軍事介入を断行し、8月末には、島の北約3分の1を支配下においた。12月にマカリオスはニコシアにもどり、大統領に復帰した。
1975年2月13日、トルコ軍が占領した北部地区でキプロス・トルコ連邦国が宣言され、初代大統領にラウフ・デンクタシュが就任した。さらに83年11月には、北キプロス・トルコ共和国(北キプロス)の樹立が宣言された。しかし、国際連合(国連)と世界各国はこの国家独立をみとめず、トルコだけが承認して今日にいたっている。 1975年以来この問題の解決策をさぐってきた国連は、91年、政治的に平等な2つの共同体で構成される連邦国家をめざす和平案をしめした。一方、EU(ヨーロッパ連合)への加盟は、97年12月のEU首脳会議で、ギリシャ系のキプロス共和国が拡大EUへの加盟対象国の第1陣とされ、98年3月から新規加盟交渉が開始された。EU加盟がギリシャ系だけだったことで、EUと北キプロスとの関係は悪化し、3月末に北キプロスはトルコと連合評議会を開き、トルコとの部分的統合の手続きなどを協議することになった。 1998年2月、大統領選挙がおこなわれ、前回93年2月の大統領選挙で南北キプロスの連邦制という国連案に反対して当選した民主運動党党首のグラフコス・クレリデスが再選された。しかしクレリデスは、2001年11月、北キプロスのデンクタシュ大統領による、キプロス問題解決のための直接対話の提案をうけいれ、翌02年1月デ・ソト国連事務総長特別顧問同席のもとで、両代表が定期的な直接交渉を開始した。さらに同年11月に国連のアナン事務総長が、2つの地域がひとつの「共同国家」を構成する、スイス型連邦国家構想を提案、両当事者とギリシャ、トルコ両政府は、これを叩(たた)き台とし早期合意をめざして協議に入った。 EU加盟問題は、2002年12月におこなわれたEU首脳会議で南のキプロス共和国の04年5月加盟が決定し、北キプロスはその対象外とされた。翌03年2月におこなわれた共和国の大統領選挙では、EU加盟までの留任に意欲をみせていたクレリデス大統領が、中道右派の民主党党首タソス・パパドプロスに敗北。選挙中に国連の仲介案に不満の意を表明し、クレリデスを「トルコに譲歩しすぎ」と批判していた新大統領だが、キプロスの再統合には前向きの姿勢をしめした。 南北統合の交渉は、その後もパパドプロスとデンクタシュの両首脳によってオランダのハーグでおこなわれた。しかし、一部領土の返還や、ギリシャ系住民の北キプロスへの帰還、連邦政府の権限分配などをめぐって妥協点がみつからず、双方ともにアナン事務総長の提案する国民投票の実施を拒否したため、交渉は事実上決裂してしまった。
2004年に入って、EU(ヨーロッパ連合)加盟をめざすトルコのエルドアン首相が、国際連合(国連)に南北統合交渉再開の調停を要請した。南北分断が恒久化すれば、北キプロスを支援するトルコのEU加盟が遠のくのをおそれてのことだった。これをうけた国連は、3月下旬、ふたたびデ・ソトを仲介役として南北の直接交渉を再開。その結果、(1)ギリシャ系住民の帰還を北の人口比18%にとどめ、(2)南北の所得格差の是正がすすむまで、ギリシャ系による北キプロスの土地購入を制限し、(3)ギリシャ系6、トルコ系3で構成する大統領評議会が連邦制国家の行政を担当、南北双方が1人ずつ首相をえらび、EU代表権を分担する、などを骨子とする国連案で合意に達した。そして、この案の諾否を問う国民投票を南北で同時に実施することになった。 しかし、4月24日におこなわれた国民投票では、トルコ系の北キプロスで国連案が約65%の賛成票を獲得したのに対し、ギリシャ系の南では反対票が約76%という、まったく逆の結果におわった。まずしい北キプロスには、南北統合によって諸外国による経済制裁が解除されることへの期待があり、一方、南のギリシャ系にとっては、北への帰還制限や、統一による経済不安定化への懸念があってのことだったと思われる。これにより、5月1日、南のキプロス共和国だけがEU加盟をはたし、南北キプロスの統一問題はまたもや暗礁にのりあげた。 2005年、北キプロスの大統領選挙がおこなわれ、国連案に前向きなメフメト・アリ・タラトが選出された。一方、南のキプロス共和国でおこなわれた06年5月の国会議員選挙では、国連案に反対していた連立政権をになう4党が2議席ふやす結果におわった。しかし、南北統一にはすべての政党が前向きである。07年7月以降、国連の仲介により、南北の指導者による和平会談が再開されている。 南のキプロス共和国は、EU加盟後も経済が安定し、2007年2月にユーロ導入を申請し、7月に正式承認、08年1月1日にマルタとともに参加した。04年のEU加盟国ではスロベニアにつづくもので、ユーロ圏は15カ国に拡大した。観光業が発達しているキプロスでは、ユーロの導入により観光客の増加が期待されている。
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