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項目構成
徴兵制がしかれ、18歳以上の男子に6~12カ月の兵役が義務づけられている(女子は志願制)。憲法は良心的兵役拒否の権利もみとめている。陸、海、空軍があるが、1947年のパリ平和条約で総兵力は最高4万1900人に制限されている。2004年の兵力は、陸軍2万500人、海軍5000人、空軍2800人、有事に動員できる予備役は約40万人である。1994年、NATO(北大西洋条約機構)加盟への第1段階として、PFP(平和のためのパートナーシップ)協定の枠組み文書に調印した。
フィンランドに人がすみついたのは今から9000年前で、原始的な狩猟民がおそらく東方から渡来し、居住した痕跡(こんせき)がのこる。今日の研究では、櫛目文土器(くしめもんどき)の時代、前3000年ごろには、フィン・ウゴル系の言葉(→ フィン・ウゴル語派)を話す人々がすでにフィンランドに到着していたと考えられている。前1800~前1600年ごろに南方からやってきたインド・ヨーロッパ語族の言語をもちいる人々が戦斧文化(せんぷぶんか。戦闘用の斧(おの)を副葬品とした)をもたらし、航海術と農耕技術をつたえた。戦斧文化と既存の文化が融合してキウカイネン文化が生まれた。鉄器時代は前500年ごろにはじまり、紀元前後からローマ文化との接触、鉄の冶金術の浸透によって部族国家形成への機運が高まっていった。
バイキング時代には東西双方からの危険にさらされた。6世紀にはスウェーデンからきたバイキングがアハベナンマー諸島を植民地化し、海賊行為や東方貿易の基地として利用した。フィンランド人はスウェーデンやゴトランド島の商人と交流し、またこの地域にもうけられた交易所から種々の恩恵をうける。11世紀末にはフィンランド系住民の領域は北緯62度まで拡大し、南西部にフィン人、内陸部にタバスティア人、東部にカレリヤ人がすむようになった。北緯62度以北の荒れ地にはサーミ人が居住していた。このとき、フィンランドに統一された国家はまだ存在していなかった。
1050年から東方正教会とカトリック教会が布教をはじめたが、サーミ人をのぞくフィンランド人がキリスト教化されるのには2世紀以上を要している。 1155年、のちに教皇ハドリアヌス4世となるイギリス枢機卿(すうききょう)ブレックスペアの要請に応じて、スウェーデン王エーリク9世はバルト海をわたった。枢機卿の目的は、異教徒をキリスト教に改宗させることと、経済的・政治的裾野(すその)を広げることであった。エーリクはフィンランドを征服したものの、永続的に服従させることはできなかった。スウェーデンのウプサラの司教だったイギリス人ヘンリーはフィンランドにのこったが、1年後に殺害され、トゥルクの町およびフィン人の聖人となった。 1171年ないし72年の教皇勅書は、スウェーデンが恒久的な守備隊をもつ砦(とりで)を建設して、フィンランドを保護化においたことにふれている。やがてスウェーデンはフィン人とタバスティア人を征服するとともにキリスト教に改宗させ、外国貿易を支配した。1209年にトゥルクに司教区がおかれた際に教会が建設され、49年にはドミニコ会の修道院がたてられた。16年にローマ教皇はこの地方がスウェーデンの一部であることをみとめ、西と北における布教の拠点とした。 スウェーデンによる支配は、1238年と49年に十字軍を派遣したビルヤー伯によって確立される。彼は中央部のタバスティアに要塞(ようさい)をきずき、ロシア人の侵入にそなえた。92年に東方からロシアのノブゴロド公国(→ ノブゴロド)がタバスティアに侵入すると、スウェーデンはカレリヤ地方に援軍をおくったが、1323年の条約でスウェーデンとノブゴロド公国との間でカレリヤ地方を分割することとなる。 1362年、スウェーデン人と同等の権利がフィンランド人にあたえられた。その後、97年にデンマークのマルグレーテ1世がカルマル同盟を結成すると、フィンランドはスカンディナビア連合王国の統治下におかれた。15~16世紀には、フィンランドの大部分はスウェーデン人貴族の領土となり、人々は重税にくるしんだ。この時期にはスウェーデンの農民、漁民、商人がフィンランドへ移住している。
カルマル同盟が崩壊したのち、スウェーデンのグスタブ1世は経済的、政治的な改革をおこない、1527年にカトリックと断絶し、数年後にルター派教会を承認した。この間、フィンランドの大部分はスウェーデン王の所領となる。イワン4世ひきいるロシア軍との戦い(1555~57)の間に、フィンランドにスウェーデン公国が建設され、のちのヨハン3世に封土としてあたえられた。70~95年の25年間、フィンランドはスウェーデンとロシアの戦争に常にまきこまれていた。 カール9世の治世(在位1599~1611)にフィンランドの全行政機関はストックホルムにうつされ、グスタブ2世の治世(在位1611~32)になると、デンマーク、ポーランド、ロシアとの長びく戦争にくるしめられた。グスタブ2世はロシアとの戦いで優位にたち、1617年のストルボバの和議によってスウェーデン公国フィンランドの領土は東方に拡大し、イングリアにまでおよんだ。 つづく三十年戦争(1618~48)では多くのフィンランド人兵士がスウェーデンのためにたたかい、民衆は重税にくるしんだ。1656~61年のロシアとの戦争で現在の状態まで領域が縮小し、戦火と95~97年の穀物の不作によりフィンランド人の約25%が死亡する。さらに、1700~21年の北方戦争ではスウェーデンをやぶったロシアに占領され、21年のニースタードの和議で東部の大部分をうしなった。その後もロシア軍の進攻はつづき、このころスウェーデンからの独立がさけばれはじめた。
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