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1807年にティルジットでナポレオン1世とむすんだ平和条約(ティルジット条約)にもとづいて、1年後にロシアのアレクサンドル1世はフィンランドを占領した。09年、ロシア帝国はフィンランドをロシアの公国とすることを宣言したが、旧来からあるフィンランド人の権利と特権はみとめられた。09年9月のハミナの講和で、スウェーデンはフィンランドとアハベナンマー諸島、カレリヤ地方を正式にロシアに割譲する。 これ以降、フィンランドはロシア人総督の支配下に入ったが、自治はゆるされ、新首都ヘルシンキにおかれたセナート(上院)は内閣としての機能をもっていた。ロシアの占領下で、フィンランドは物質的、文化的な発展をとげる。1820年以降人々の間に民族意識が高まってきたが、それはおもにフィンランド語の復活に争点がしぼられていた。09年から閉鎖されていた議会が63年に再開し、同年フィンランド語はスウェーデン語と同様の使用がみとめられた。 しかし、しだいにロシアの政策は転換しはじめ、19世紀末にはロシア化が強いられるようになった。1894年に一部の公務にロシア語が導入され、5年後にロシアは立法権を掌握し、数年後にフィンランド人は多くの権利をうばわれた。その後、日露戦争(1904~05)がはじまると、ロシア化政策は緩和される。1906年に一院制の議会がつくられて25歳以上の男女に参政権があたえられ、12年にはロシア人と同等の権利がフィンランド人に保障された。
第1次世界大戦ではフィンランドは直接参戦しなかったが、ロシア軍が国内に駐屯した。1917年にロシア革命がおこると、フィンランド議会はこの機を利用して、12月6日に共和国として独立を宣言する。誕生したばかりのソビエト政府は、フィンランドの主権をみとめざるをえなかった。 新国家は飢饉(ききん)、高い失業率、不況といった問題に直面した。不安定な政情の中で、農民や資産階級からなる政府勢力と、小作農と労働者の革命勢力が対立、それぞれ白衛軍と赤衛軍を組織した。 両者の対立は激化し、ロシア軍追放という政府の政策に反発した赤衛軍が1918年1月28日に蜂起(ほうき)、内戦に発展した。政府はバーサに避難し、マンネルヘイム将軍が討伐軍を組織する。白衛軍をひきいたマンネルヘイムは、ドイツ軍の援助をえてヘルシンキを奪回し、革命勢力をうちやぶった。国家が平静をとりもどした19年7月、国会は新憲法を発布し、自由主義者のストールベリが初代大統領に就任した。 1920年代と30年代も、非社会主義政党による連立政権時代がつづいた。共産党は非合法化されたが、社会民主党は発展をとげる。32年にはソ連と不可侵条約をむすび、35年以降、北ヨーロッパの自由主義諸国寄りの外交政策がとられた。
1939年に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとフィンランドは中立を表明したが、レニングラード(→ サンクトペテルブルク)への侵攻をおそれたソ連は、カレリヤと引き換えに国土の一部を割譲するよう要求してきた。フィンランドがこの要求をこばんだため、同年11月30日、ソ連軍は侵略を開始する。冬戦争とよばれるこの戦いで、マンネルヘイム将軍ひきいるフィンランド軍は善戦したが、大軍を擁するソ連軍を前にして、和平をむすばざるをえなかった。 1941年6月にドイツ軍がソ連を攻撃したとき、フィンランドはふたたび中立を表明したが、7万5000人のドイツ軍がフィンランド北方から軍事行動をおこした。フィンランドがドイツ軍に国土を利用させたことに対抗して、ソ連はフィンランドの都市を空爆し、結局フィンランドはソ連に宣戦布告する。これは、ドイツとは同盟関係になく、たんに共戦関係にすぎないことを強調したものだったが、同年12月にイギリスから宣戦布告され、アメリカ合衆国には国交を絶たれた。 このようないきづまった状態の中、1944年8月に大統領になったマンネルヘイム元帥は和平を模索し、同年9月19日に休戦条約に調印した。これにより、フィンランドはソ連に北部のペッツァモ地域を割譲し、フィンランド湾のポルッカラ半島を貸与したうえ、3億ドルの賠償金を課せられた。 → ソ・フィン戦争
1947年にソ連との間に最終的な平和条約がむすばれた。賠償金は物品のかたちで52年までに全額しはらわれ、55年にポルッカラ半島が返還される。ソ連との新たな関係をきずくために、共産党を合法化し、48年には友好協力相互援助条約をむすんだ。なお、この条約は92年に廃棄されている。
1990年代初期にソ連が東ヨーロッパにおける支配力をうしなうまで、フィンランドの基本的外交方針は、中立をまもりながら、独立した立場でソ連と友好関係を維持することにあった。この政策は、戦後の2人の大統領にちなんでパーシキビ・ケッコネン路線とよばれる。 ケッコネンは1950~56年まで首相を、56~81年まで大統領をつとめた。彼はソ連との摩擦をさけ、ソ連がいだいている非友好的なフィンランドというイメージをやわらげるようにつとめた。西側陣営はこうした外交関係を揶揄(やゆ)したが、フィンランドの態度はソ連との友好関係に配慮しながらも、実際は北ヨーロッパや西側諸国への接近を指向していた。ソ連崩壊後、フィンランドは旧ソ連諸国との経済、開発関係を再構築しはじめている。
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