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    イスラム教 (いすらむきょう)または イスラーム (稀に イスラーム教 )とは、唯一絶対の 神 ( アラビア語 で アッラーフ )を信仰し、神が最後の 預言者 たる ムハンマド を通じて人々に下したとされる クルアーン (コーラン)の教えを信じ、従う ...

  • イスラム教

    630年1月 マホメット がメッカを再征服、カーバ神殿の偶像を破壊。 631 マホメット、アラビア半島を統一 632年6月 マホメット がメディナに病没。 アブー・バクルが後継者 (カリフ) となり、それ以後イスラム教はシリア、エジプトなどへ普及 ...

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イスラム教

イスラム教 イスラムきょう Islam
百科事典項目
項目構成
V

歴史

ムハンマドの時代(570頃~632)のアラビア半島には、遊牧や山賊行為をおこなうベドウィンと、交易に従事し都市に在住するアラブ人がすんでいた。アラブ人の宗教は多神教だったが、一神教の古い伝統や、少なくとも卓越した神に対する信仰も存在していた。おそらく、ユダヤ教徒やキリスト教徒の共同体が、アラブ人が一神教の教義をうけいれていくのに影響をあたえたものと思われる。しかし、ユダヤ教もキリスト教もアラブ人をひきつけることはなかった。

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ムハンマド

ムハンマドは40歳のとき、大天使ジブリール(ガブリエル)が彼のもとにあらわれ、預言者となったことを自覚した。ムハンマドは、家族としたしい友人にこの出来事をうちあけた。4年後には、およそ40人を彼の説く教えに改宗させ、故郷メッカで公然と布教を開始した。しかし、メッカの人々の猛反対にあい、622年にメディナに移住した。この出来事をヒジュラといい、イスラム暦の起点となった。

メディナでムハンマドは、すぐに政治と信仰の両方の権威者となり、立法者であり預言者であることがみとめられた。そして、彼に反対するアラブ人やユダヤ教徒がしりぞけられると、メッカに対する戦いがはじまった。アラブ諸部族がムハンマドとの同盟を宣言し、630年にメッカは降伏した。632年にムハンマドが死んだときには、彼が指導者だったアラブ国家は急速に政治権力を強化しつつあった。

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古典期

イスラム教の最初の数世紀(7~10世紀)に、法と神学すなわち正統イスラム教の基本原理が発展した。イスラム教において神学は法についで重要なものだが、キリスト教神学ほど本質的ではない。神学的思考はムハンマドの死後すぐにあらわれた。イスラム神学

最初の主要な論争は、第3代カリフ、ウスマーンの暗殺によってひきおこされ、政治的抗争に発展した。問題は、殺人などの大罪をおかした者はイスラム教徒のままでいられるかどうかということだった。ハワーリジュ派とよばれる過激な集団は、大罪をおかした者はイスラム共同体から除外すべきであるという立場をとった。彼らは、ただしい信仰ではなく善行をイスラム教の本質とみなしたのである。ハワーリジュ派はほとんどすべての政治権力者に異端とみなされ、たび重なる反乱ののちに、弾圧され最終的に消滅した。しかし、イバード派とよばれるハワーリジュ派の中の穏健派は、現在でも北アフリカ、東アフリカ、シリア、オマーンにのこっている。

8~9世紀にギリシャ哲学がアラビア語に翻訳され、ムータジラ派とよばれる理性と厳格な論理を強調する学派が台頭した。これはイスラム世界ではじめて体系的な神学を確立した学派だった。

ムータジラ派は、善行の重要性の問題では、大罪をおかした者はイスラム教徒と非イスラム教徒の中間的な存在であるとした。また、彼らは神の唯一性と正義を力説し、神はいかなる属性ももたない本質であると主張した。属性をみとめることは多神崇拝につながるからである。神の正義はまた人間に自由意志を要求する。神は人間が自由に選択した善または悪の行為の結果にしたがって、賞罰をあたえるからである。神は完全だから、善者がむくわれなかったり、悪者が罰せられなかったりすることはない。また、ムータジラ派は合理主義の立場から、人間の理性は善悪を区別する能力をもっていると主張するが、その能力は啓示によっておぎなわれる。ムータジラ派の神学は、アッバース朝カリフ、マームーンによって公式神学として採用された。

しかし、10世紀に哲学者アシュアリーとその弟子たちはムータジラ派と対決した。彼らは、人間の自由意志は神の絶対性の概念とあいいれないとして否定した。また、彼らは人間の本来的な理性は善悪を識別することができず、倫理的な真実は神にゆだねられ、人間は啓示によってのみ知りうるとした。アシュアリーの思想とその学派はしだいにスンナ派、すなわちイスラム教の正統派を代表する神学となり、今日にいたるまで優勢をたもっている。しかし、スンナ派の特徴は、見解のわずかな違いは寛大にあつかい調停すること、教義にかかわることは共同体の合意の必要性を強調することにあった。

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中世の哲学

おそらくムータジラ派は、その思想を発展させるにあたり、ギリシャ哲学の方法をもちいた最初の集団であろう。同じ方法をもちいて彼らに反論した者たちもあったため、その論争は、マームーンによって奨励されたギリシャ哲学や科学のアラビア語への翻訳と研究に重点をおくイスラム哲学運動を開花させるにいたった。

最初の重要なイスラム哲学者は、9世紀のキンディーである。彼はギリシャ哲学の真理と彼が哲学的理性にまさるとみなしたイスラム教の啓示的真理とは一致すると説いた。この時期の一連のイスラム哲学者がそうであったように、彼は主としてアリストテレス新プラトン主義の影響をうけた。10世紀に活躍したファーラービーは、啓示と宗教法を哲学より下においた最初のイスラム哲学者だった。彼は哲学的真理は普遍的であるということと、それぞれの宗教はひとつの理想的な世界宗教の象徴的表現であると主張した。

11世紀に、イラン人の哲学者で医者のイブン・シーナー(アビセンナ)は、ギリシャ合理主義とイスラム思想を体系的に調和しようとこころみた。しかし彼はその過程で、人間の来世における復活や世界の創造のような、いくつかの正統派の信仰箇条を否定した。彼はまた、宗教は、哲学的真理を理性的に明確なかたちで理解できない民衆にうけいれられるように比喩的にあらわした哲学にすぎないと主張する。このため、イブン・シーナーだけでなく哲学全般が正統派の思想家たちのきびしい批判にさらされた。とくに思想家ガザーリーは、著作「哲学者の矛盾」の中でイスラム教の教義に矛盾した哲学者たちの説を批判した。12世紀の哲学者で医者のイブン・ルシュド(アベロエス)は、ガザーリーの哲学批判に反論し、アリストテレスと新プラトン主義の哲学を擁護した。彼はスコラ哲学に影響をあたえ、西欧文化史の中でもっとも偉大なイスラム哲学者と位置づけられた。

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スーフィズム

スーフィズムとよばれる神秘主義運動は、8世紀にはじまる。最初は敬虔(けいけん)な信者の小さな集団だったが、イスラム共同体が世俗化することに反発し、精神の内面や道徳的純化を強調しはじめた。9世紀に、スーフィズムは神との直接対話や神との合一をめざす神秘的教義を発展させた。この神との神秘的合一への熱望は、一神教を旨とする正統派イスラム教と対立した。922年スーフィーのハッラージュは、神との合一を主張したことを非難され、バグダッドで処刑された。すぐれたスーフィーたちはしだいに穏健なスーフィズムと正統主義を総合しようとつとめた。そして11世紀に、ガザーリーは正統派の枠組みの中にスーフィズムを位置づけることに成功した。

12世紀にスーフィズムは、知識人だけのものから民衆の中へと広がっていった。スーフィーが強調する直感的な認識と神の愛は、民衆をイスラム教に強くひきつけることになり、イスラム教は中東だけでなくアフリカや東南アジアにまで広まった。スーフィーの教団は急速に大西洋からインドネシアにかけて拡大した。教団は全イスラム世界に広がるものもあれば、地域単位のものもあるが、こうした教団の大成功は、創始者や指導者の能力と博愛によるものである。彼らは弟子たちの精神的なよりどころとなったばかりでなく、信仰をもたない者をたすけたり、しばしば民衆と国家の間の仲介者としての役割もはたした。

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