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シラク,J.R.

シラク Jacques René Chirac
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

1932~ フランス大統領。在任1995~2007年。パリに生まれる。1957~59年に国立行政学院でまなび、62年、ド・ゴール政権の首相ポンピドゥーの官房に勤務した。67年に国民議会議員となり、68年の「五月革命」に際して、労働者組織との折衝にあたった。72年に農相に就任、ヨーロッパの市場統合で難問をかかえていた農業問題にとりくみ、74年には、移民問題や人種差別問題が焦点となる中で、内相となった。

II

2度の首相就任

ポンピドゥー大統領が1974年4月に急死したのち、シラクはド・ゴール派の後継者シャバン・デルマスを支持したが、中道右派のジスカール・デスタンが大統領になると、保守派の結束をはかる新大統領に要請されて首相になった。しかし、左派に支持を広げようとする大統領と、右派の路線を強調する首相シラクの対立はしだいに拡大し、76年、首相を辞任した。74年にド・ゴール派の組織、共和国民主連合(UDR)の書記長になっていたシラクは、首相辞任後、共和国民主連合を改組した共和国連合(RPR)の総裁となり、77年にはパリ市長に就任した。

1981年の大統領選挙に立候補したが、社会党のミッテランにやぶれた。第1回投票で保守派ジスカール・デスタンの得票をうわまわり、保守連合の候補となったが、右派色の強いシラクはデスタン系の票を効果的に獲得できなかった。

1986年の国民議会選挙で社会党が議席をへらしたため、ミッテラン大統領はシラクを首相に任命、保革共存(コアビタシオン)政治をおこなった。シラクはミッテラン大統領のもとで内政を担当、国有化された大企業の民営化をおこない、また、厳格な移民統制政策を実施して、大統領と首相の路線の違いを強調した。88年の大統領選挙で、ふたたびミッテランと対決したが、またも敗北した。

III

1期目のシラク政権

第2期のミッテラン政権のもとで、シラクは野党の指導者としての立場に終始したが、保守派のライバル、ジスカール・デスタンの高齢化、ミッテラン外交政策のド・ゴール路線への接近によって、シラクの地位は急激に上昇した。ミッテランの任期終了にともなう1995年の大統領選挙では、93年から保革共存のもとシラクにかわって首相の座についていたバラデュールも立候補し、右派が分裂する事態となった。この選挙ではシラクの腹心の部下サルコジがバラデュール支持にまわるという予想外の行為がありながら、バラデュールや社会党のジョスパン候補をやぶって当選、第5共和政5人目の大統領となった。就任直後、国際世論をおしきって南太平洋ムルロア環礁沖で核実験を強行、かつてのド・ゴールを思わせたが、一連の実験終了後は対外協調路線に転じ、柔軟な姿勢をしめした。

しかし、国内においては、シラクとアラン・ジュペ首相がすすめた行財政改革、規制緩和などが失業率の増加や貧富の格差拡大をもたらし、それを不満とする国民は1997年5~6月におこなわれた国民議会選挙で社会党を中心とする左翼勢力を勝利させた。シラクは新首相に社会党のリオネル・ジョスパン第1書記を指名、ミッテランのときとは逆のコアビタシオン政権が誕生した。

シラクは、ドイツとフランスが推進役となってすすめてきたEU(ヨーロッパ連合)の強化と、1999年1月からのヨーロッパ単一通貨ユーロの導入をはたし、国際的影響力の拡大につとめた。

IV

2期目のシラク政権

2期目をめざした2002年4月の大統領選は、社会党のジョスパンとの一騎打ちになるとみられていた。しかし、シラクは約20%の得票で首位を確保したものの、極右政党「国民戦線(FN)」の党首ジャンマリ・ルペンが約17%を獲得、ジョスパン(約16%)をぬいて2位につけた。上位2者による5月の決選投票では、国民戦線に対抗するために社会党など左派もこぞってシラクを支持し、約82%という高率の得票で再選をはたした。任期は、00年の国民投票にもとづく憲法改正で7年から5年に短縮され、この期から適用されたので、07年までとなった。

再選されたシラク大統領は、中道の自由民主党(DL)副党首ジャン・ピエール・ラファランを首相に指名、2002年6月におこなわれた国民議会選挙には、シラクの共和国連合を軸に、中道のフランス民主連合(UDF)および自由民主党の一部が「大統領多数派連合」(UMP)を形成してのぞみ、同連合は過半数を大きく上まわる議席を獲得した。これにより、5年にわたるコアビタシオンは解消した。

同年11月、UMPは正式な政党「民衆運動連合」(UMP)として発足(党首アラン・ジュペ元首相)、フランスでは初の保守・中道の連合政党の誕生でシラク政権の基盤は安定した。2期目のシラク政権は、公約としてかかげた治安対策の強化や所得税の減税、国営企業の民営化推進などの構造改革にとりくむことになったが、EUの安定成長協定のルールにふれるまでに拡大した財政赤字という困難をかかえており、公約の実現は簡単ではない。

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