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Windows Live® の検索結果 1962年にソ連がキューバにミサイルを配備したことによってアメリカとソ連の間でおきた抗争事件。世界じゅうの人々はこの危機が米ソの核戦争につながることを懸念した。 1959年、キューバにカストロの革命政府が成立したが、アメリカはそれをみとめず、経済封鎖による孤立化をはかった。それに対し、キューバはソ連に接近、ソ連のフルシチョフ首相はキューバへの中距離ミサイルの配備計画をうちだした。これはアメリカ東部を射程内におくことを意味する。フルシチョフは実際の配備を否定していたが、前年4月にはアメリカの支援をうけた亡命キューバ人部隊がキューバに侵攻して撃退されており(ピッグス湾事件)、さらに緊張が高まった。62年夏、アメリカの偵察機がキューバでのミサイル基地建設の写真撮影に成功。10月14日にはミサイルを確認して、アメリカはミサイルの脅威に直接さらされることが明らかになった。 こうした事態に、アメリカ大統領ケネディは側近たちと秘密裡に協議をすすめ、キューバ侵攻、空爆、海上封鎖、外交交渉などさまざまな対応策を検討した。1962年10月22日、ケネディは海上封鎖を宣言して新たなミサイルの配備を阻止するとともに、ソ連がミサイルを解体、撤去することを要求した。そしてミサイルの搬出を確認するため、アメリカ海軍が航行する艦船を査察できる封鎖海域を設定する。米州機構加盟国はアメリカの一連の措置を支持した。 緊張が最高潮に達するなか、キューバへむかうソ連の艦船は数日間、封鎖海域に入ることをさけ、両首脳は外交ルートで交渉した。その結果、フルシチョフ首相は当初の立場を変更し、アメリカがキューバに侵攻しないことを条件に1962年10月28日ミサイルの解体、撤去に同意、国連による現地査察を提案した。大統領はこれを受け入れ、海上封鎖を解除した。フルシチョフの譲歩に激怒したキューバは現地査察を拒否したが、アメリカは偵察機でミサイル基地の撤去を確認した。ソ連がこの危機で譲歩したことによって、米ソは平和共存にむけて急速に接近したが、いっぽうでフルシチョフの弱腰は64年10月の解任の原因のひとつとなった。 → 冷戦
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