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第1次世界大戦(1914~18)では多くの黒人が軍隊に入隊し戦闘に参加したが、軍隊内の人種隔離のもとで差別にくるしんだ。戦時中、白人の多くが兵役についたため労働力需要が高まり40万人以上の黒人が南部農村から北部や西部の都市へ移住した。南部黒人の移住は1950年代にはいるまでつづいた。 1890年には南部黒人の85%が農村に居住していたが、1960年までにこの割合は42%に低下した。60年、北部では黒人の95%が都市域に居住することになる。移住と都市化により北部では黒人コミュニティが形成され、強力な政治力を行使することで、人種隔離制度に対する南部黒人の闘いを援助した。 1930年代の大恐慌(→ 恐慌)期、北部諸都市では人種差別への黒人の抵抗が高まった。「はたらけない場所では買い物をするな」をスローガンに黒人を雇用しない白人商店に対する不買運動をおこし、黒人児童への差別的扱いを理由に学校へのボイコットも組織された。 大恐慌期に黒人は失業率がきわめて高く雇用面でもいちじるしい差別にあったが、フランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の恩恵をうけた。1936年の大統領選挙を契機に黒人票が民主党にながれこみ、黒人はルーズベルト政権をささえる重要な基盤となった。 反リンチ法案の不成立がしめすように、南部議員を中心とする議会の人種差別的姿勢は根強かったが、連邦政府と連邦最高裁は黒人寄りの姿勢を強めた。ちなみに、黒人に被害者の多かったリンチに対して、連邦法で歯止めをかけようとする反リンチ法は1968年まで成立させることができなかった。
1939年に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、第1次世界大戦の差別経験から黒人は軍隊や軍需産業でのより公平な処遇をもとめた。第2次世界大戦で徴兵された黒人は70万人に達したが、白人とは別部隊に編成された。人種隔離のもとで戦闘では白人と同じ軍務をになったのだった。 1941年春から夏、中心的な黒人労働運動指導者フィリップ・ランドルフらが、連邦政府に黒人の雇用差別禁止をもとめるため、黒人によるワシントン行進をよびかけた。この行進は実現しなかったが、ルーズベルト政権は政府と軍需契約をむすぶ企業が雇用面で人種差別をおこなうことを監視する公正雇用実施委員会(FEPC)の設置を約束した。FEPCは軍需産業における人種差別を完全には払拭(ふっしょく)できなかったが、決然たる抗議の姿勢が連邦政府をうごかすという教訓を黒人にあたえた。 投票権や教育の平等をめぐる黒人の闘いは大戦中もつづいた。NAACPの会員数は50万人に達し、1942年には北部の公共施設での人種隔離を改善するために、人種平等会議(CORE)が結成された。 第2次世界大戦中、黒人諸新聞はヨーロッパのファシズムと国内の人種差別との双方に対する勝利をとなえた。大戦に従軍した黒人兵士は、人種隔離の軍隊に編成されながらも、ヨーロッパやアジアでファシズム打倒の戦いに参加して差別批判の自覚と自信を深めた。また、黒人兵士の愛国主義的で勇敢な活躍が国内の白人の間に黒人公民権無視の現実を疑問視させる契機ともなった。 さらに、反ファシズム戦争の指導者を自覚するアメリカが、国内に人種差別を温存しているという矛盾を批判する国際世論の高まりもみられた。1882年に立法化されていた中国系移民排斥法が中国政府の非難をうけ、連邦議会が1943年に同法を撤廃し、48年には人種差別の禁止もうたう世界人権宣言が、アメリカも生みの親のひとりである国際連合で採択された。 こうした内外の変化を背景に、トルーマン大統領は公民権(市民権)に関する大統領委員会を設置、1948年には議会に特別教書をおくって公民権の保護をうったえた。議会は教書に対して具体的な行動はおこさなかったが、同年にトルーマン大統領は連邦政府職員の雇用での人種差別禁止や、軍隊での人種統合をすすめる行政命令を発し、50年には連邦最高裁が複数の州で営業している州際鉄道の食堂車での人種差別を禁じる判決をくだした。しかし、南部白人の差別感情や南部の人種隔離制度崩壊の兆しは容易にはあらわれなかった。
第2次世界大戦後、NAACPは法廷闘争による完全な公民権獲得の闘いを継続し、1950年に連邦最高裁はスウェット対ペインター事件判決で州立のテキサス大学はそのロー・スクールで人種統合教育をおこなうべしとの判断をしめした。さらに54年、NAACPは白人公立小学校への入学を拒否されたカンザス州の黒人少女の親を援助してブラウン対トピーカ市教育委員会訴訟をおこした。 従来、裁判所では1896年のプレッシー対ファーガソン事件での「分離しても平等」という連邦最高裁判決を根拠に人種分離教育が正当化されていた。しかし、このブラウン対トピーカ市教育委員会事件判決(いわゆるブラウン事件判決)で連邦最高裁は、人種別学が黒人児童に劣等感をうえつけることで児童の発達を阻害するという理由から、公教育における人種隔離は教育の機会均等をさまたげているとして違憲とする画期的判決をくだした。 ブラウン事件判決に対して、南部白人社会では強烈な反発がまきおこった。1956年には南部選出の連邦議会議員の8割近くにより、判決を無効とする南部宣言が発せられ、人種隔離制度の維持をとなえる人々により白人市民会議が結成された。南部各州の議会は人種統合教育をさまたげる州法を続々と成立させ、クー・クラックス・クランの活動も再燃、ブラウン事件判決を支持する黒人の解職や白人だけの私立学校設立の動きも広がった。 ブラウン事件判決直後には、人種統合を推進する学校は南部にあらわれなかった。バージニア州のある郡では公立学校がすべて閉鎖された。1956年にはアラバマ州立大学に合格した黒人女性が強制退学させられ、57年にはアーカンソー州リトルロックで9人の黒人生徒が公立高校へ入学するのに州知事が陣頭にたって反対、白人市民による暴動が生じた。アイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣して暴動を鎮圧、軍隊を駐留させて黒人生徒の安全をはかった。こうした模様はメディアをとおして全米にながれ、人種隔離教育のはらむ問題の根深さを国民に知らせた。
一方、完全な公民権をもとめる黒人の闘いは、ブラウン事件判決を機に学校での人種統合教育をこえて他の場所での人種隔離への挑戦へと急速に拡大した。 1955年12月、NAACPのアラバマ州モンゴメリー支部に属する黒人女性裁縫工ローザ・パークスが、市バス内で白人に席をゆずれという運転手の命令をこばんだため州法違反で逮捕された。パークス逮捕の知らせはモンゴメリー市の黒人社会にただちに広がった。以前から人種差別的な市バスに憤慨していた黒人たちは、一夜にして組織化され、バス・ボイコットを決定した。このボイコットは1年以上つづき、市内在住の5万人の黒人と良心的な白人が参加した。 ボイコット運動をささえた中心人物が、26歳のわかきバプティスト派の牧師キングだった。南部で生まれ北部の大学でまなんだキングは、ガンディーの非暴力抵抗思想に強い影響をうけ、ボイコット運動を人間正義の闘いととらえて、整然とした抗議行動によって車内の人種隔離廃止をめざした。市当局と白人社会は逮捕や暴力により運動を阻止しようとしたが、1956年11月、連邦最高裁が公共バス内での人種隔離を違憲とする判決をくだし、運動は勝利をおさめた。キングは一躍、公民権運動の指導者として脚光をあび、57年に南部キリスト教指導者会議(SCLC)を設立、精力的に運動を展開していく。 同年にはアイゼンハワー政権が公民権(市民権)法を成立させた。これは公民権委員会によって黒人の選挙権行使への妨害を防止しようというもので、人種隔離制度を解体させるような法律ではなかったが、市民権法(1866)や憲法修正第14条(1868発効)など南部再建期に黒人に保障された市民権の実態がともなわない情況の中で、20世紀になってはじめて成立した公民権法として象徴的な意味をもつものだった。
1960年2月初め、ノースカロライナ州グリーンズボロの白人専用ランチ・カウンターに4人のNAACPの黒人大学生がすわり、コーヒーを注文した。人種隔離制度のもとで注文は無視されたが、4人は座り込み(シット・イン)をつづけた。脅しにもかかわらず、この座り込みにくわわる黒人はふえ、マスコミ報道がなされると、人種隔離制度に抗議する座り込みや眠り込み(スリープ・イン)といった同様の行動が南部じゅうの食堂やモーテル、図書館、劇場などに広がった。こうした運動の参加者は南部の諸都市で数万人におよんだ。ブラウン事件判決にもかかわらず厳然と存続する南部の人種隔離制度に、非暴力直接行動で黒人学生がたちあがったのだった。 1960年4月にノースカロライナ州ローリーで、学生の座り込みを組織・指導するために学生非暴力調整委員会(SNCC)が、エラ・ベーカーの強い影響をうけて結成された。SCLCとNAACPで活動してきたベーカーは、SNCCが国の立法改善をめざすSCLCから独立した学生組織として、SCLCとちがった路線をとり、個々の黒人コミュニティを基盤に公民権運動を推進する必要性を説いた。やがて公民権運動の高揚の中で、SCLCとSNCCは緊張を深めていくことになる。
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