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公民権法の成立にもかかわらず、とくに深南部の都市や農村地域では黒人の有権者(投票権)登録が白人当局やクー・クラックス・クランの暴力的妨害ですすまなかった。SNCCは南部の人種差別的政治の改革には黒人の有権者登録が必須との立場から、識字など登録テストの訓練をはじめとする啓蒙活動を展開した。アラバマやミシシッピでは、1961年からボブ・モーゼスらSNCC活動家が運動をおこなっていたが、あいつぐテロになやまされ、63年には死者もでていた。 SNCCは、1964年夏にミシシッピ州で黒人有権者登録の推進をすすめるために「ミシシッピ夏期計画」を実施した。この活動には、黒人だけでなく北部からも700人以上の白人学生が参加したが、テロや暴力が間断なくくわえられ、黒人と白人あわせて6人が殺された。しかし、妨害にもかかわらず約1000人の黒人が有権者登録をはたした。 「ミシシッピ夏期計画」は政治に目をむける黒人の数をふやし、人種差別的な民主党州組織に対抗して、1964年春に設立されていたミシシッピ自由民主党(MFDP)の力をのばした。MFDPは、8月の民主党全国大会に70人近い代議員を選出したが、MFDPが有権者登録への白人の妨害を非難し、それがマスコミに大きくとりあげられたため、党大会の混乱をおそれた民主党指導部は代議員としてみとめなかった。これによりSNCCの青年活動家の間には民主党リベラル派への不信感が生まれ、のち「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケルら急進派の分派をまねく遠因になったといわれる。 1965年3月、アラバマ州セルマで、SCLCはSNCCが主導する投票権要求闘争に直接行動を導入した。前年にノーベル平和賞を受賞したキングらがよびかけて、セルマから州都モンゴメリーまでの5日間、80kmにおよぶ2万人以上がおこなったセルマ大行進は「自由の行進」とよばれ、州当局のさまざまな妨害を排して成功した。行進の模様は、マスコミによって報道され、投票権をもとめる公民権運動家の勇気ある姿と強力な立法措置の必要性を国民に印象づけた。 行進ののち、ジョンソン大統領は黒人投票権を連邦が保護する投票権法案を議会に提案、同年8月に投票権法が成立した。これによりミシシッピ州では黒人の有権者登録率が1968年に6割近くに達するなど、黒人有権者は南部政治に重要な影響をおよぼすようになった。
1965年の投票権法の成立後、公民権運動の目標は変化しはじめた。公民権運動の青年指導者たちは、「法の前の平等」にもとづく人種統合要求や道徳的理想主義というキングの訴えを批判し、人種差別への姿勢が弱腰だとキングら既成指導部を非難した。 1964年7月のニューヨークのハーレム暴動を皮切りに、68年夏までにニューヨーク、ロチェスター、ロサンゼルスなど北部の都市をふくむ全米諸都市で「長く暑い夏」とよばれる黒人都市暴動が夏季に頻発した。キングの公民権運動は南部の人種隔離制度を攻撃目標としたが、60年代初めには黒人の半数近くは北部のスラム街にすむようになっていた。北部では人種隔離制度はほとんどなかったが人種差別は厳然としてあり、北部黒人が公民権運動の成果の恩恵にみすてられたまま、失業や住宅難による極貧の中にいたことが都市暴動を誘発した。 SNCCのカーマイケルは、キング批判の急先鋒であり、1966年に黒人運動の自立と自衛をうったえてブラック・パワーをとなえた。ブラック・パワーの主張者たちは、攻撃的なスピーチと活動で黒人の自意識、自尊心、自立をうったえて65年に暗殺されたブラック・ムスリムのマルコムXから強い刺激をうけていた。 マスコミは急進的黒人分離主義を根拠にブラック・パワーを公民権運動の危険な異端としてえがき、公民権運動諸団体や白人社会の非難をあおり、国民の間に定着しつつあった公民権運動をめぐる意見の一致を妨害した。 SNCCから白人を排除し、急進的傾向を強めたカーマイケルら若手指導者たちは、白人社会からは暴力と人種分裂の扇動者という烙印(らくいん)をおされた。また1966年に黒人の自由と権利の獲得や、黒人コミュニティの自主管理をかかげるブラック・パンサー党がカリフォルニア州オークランドで結成され、のち暴力を目的達成手段としてみとめて影響を拡大すると、警察は徹底弾圧の姿勢でのぞみ、指導者の一部は殺害され、多くが収監された。 1965年以降、都市暴動やベトナム戦争の深刻化の中で、キングは反貧困とベトナム反戦をむすびつけ、北部の人種不平等を攻撃する急進化傾向をしだいに強めた。67年、キングは黒人の貧困・暴力問題に国政の関心をあつめるため、第2のワシントン大行進をふくむ「貧者の運動」を計画。68年4月、黒人労働者のストライキ支援のためにおとずれたテネシー州メンフィスで志半ばにして暗殺された。 彼の死後に実施されたワシントン行進は、政府の冷淡な対応もあって成功しなかった。南部の人種隔離制度とちがって、北部都市の人種問題は特定の法律をかえれば成果がみえるという性格のものではなかったといえる。
多くの活動家や研究者にとり、公民権運動は1968年のキングの死をもっておわったといえる。しかし、65年のセルマ大行進以後は運動に決定的転換はなかったことを理由に、セルマ大行進とそれにつづく投票権法成立を終結点と主張する者もいる。また、一部の黒人の間には、完全な人種平等という目標が達成されていない以上、公民権運動はまだおわっていないと主張する者もいる。 1968年以降もアメリカの人種問題は生きつづけた。都市の貧困問題は黒人の間でとくに深刻で、いっそう悪化している。70年代、公教育の人種比率を改善するため、学区外からのバス通学を導入することは大きな論争をよんだ。64年の公民権法から導入された黒人など少数民族集団や女性への積極的差別是正策(アファーマティブ・アクション)は、雇用や教育の機会均等を保障しようというもので、たとえば企業などへ優先枠をもうけて雇用するよう義務づけた。しかし、逆差別などの批判があり、さまざまな問題を90年代にももたらしている。 完全な平等は先のことでも、人種統制制度としての法的人種隔離は消滅し、黒人が人種隔離制度の屈辱にたえる必要もなくなった。公共施設は万人に門戸を開き、黒人は投票権により民主主義に影響をおよぼす権利を獲得した。人種平等を達成する道程は長くけわしかったが、その努力は完全な平等を達成するまでつづけられねばならない。
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