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Windows Live® の検索結果 フランス南部の地方で、かつての州。マシフサントラルと地中海の間で、東はローヌ川、南はオード川にはさまれた地域である。ラングドックという地名はオック語(プロバンス語)という意味で、昔この言語を使用していた地域をさす。かつてのラングドック州は現在よりも広い範囲におよび、ミディ・ピレネー地域圏(レジオン)のトゥールーズもふくんでいた。現在、旧ラングドック州の大半は、旧ルーシヨン州とともにラングドック・ルーシヨン地域圏(レジオン)を構成している。おもな都市はニーム、カルカソンヌ、ベジエと、現在のラングドック・ルーシヨン地域圏の中心であるモンペリエである。 オ(高地)・ラングドックとバ(低地)・ラングドックにわかれる。バ・ラングドックはリオン湾沿いの沖積平野で、ブドウ栽培が盛ん。マシフサントラルにむかって階段状に標高が高くなり、ミネルボワ、モンターニュ・ノワールなどの山や、セベンヌ山麓(さんろく)のガリーグとよばれる荒地があらわれる。平野には、ガロンヌ川、オード川、オル川などが縦横にながれ、エスカンドルグ火山の溶岩流のつくった丘もみられる。海岸沿いには、トー湖、モーギオ湖などの潟湖も点在する。オ・ラングドックはトゥールーズからセベンヌ山脈にいたる地域で、シドブル山、ラコーヌ山脈、レスピヌーズ山脈などの山々や、アグー川などのつくる数多くの湖がその風景を形づくっている。 ラングドックには、前6世紀ごろ、イオニアのフォカイア人がうつりすんだ。しかし前122年にローマ人に征服され、ローマはここにナルボネンシル州をもうけた。5世紀以降ガリアにはゲルマン人のバンダル族、アレマン族、西ゴート族(→ ゴート族)が侵入した。507年西ゴート族はクロービスにやぶれて南西ガリアをおわれ、ラングドックにセプティマニア王国をたてた。719年イスラム教徒がナルボンヌをうばった。カロリング朝のカール・マルテルと息子のピピン3世らがイスラム教徒と西ゴート族をやぶり、ナルボンヌとセプティマニアをとりもどした。ラングドックはフランク王国の辺境地区とされた。 9世紀になると、南フランスを13世紀まで支配することになる大諸侯たちが出現した。トゥールーズ伯が、かつてのセプティマニアを領地とする。12世紀の初めにはバルセロナ伯がベジエ、アグド、ジェボーダンの地を手にいれた。バルセロナ伯はアラゴン王国と合併し、それ以後、経済的にも文化的にも豊かなラングドックをめぐって、アラゴン王とフランス王の対立が生じた。 やがて異端のカタリ派が広がり、1208年シモン・ド・モンフォール(シモン4世)の、ついで26年には国王ルイ8世の指揮のもとにアルビジョワ十字軍(→ 十字軍)が派遣された。異端派は制圧され、29年のパリ条約(モー条約)により、ラングドックはトゥールーズ伯の手をはなれてフランス王の支配下にはいり、71年に最終的に王領となった。ラングドックという地名が生まれたのは、このころである。その後百年戦争の間は混乱に乗じた兵たちにあらされ、宗教戦争の際には、いくつもの血なまぐさい事件を体験した。1598年ナントの王令により、多くの都市に新教徒の自治特権がみとめられたが、1629年アレスの王令により、自治はとりあげられた。85年ナントの王令の廃止後、ヤベンヌ地方のカルバン派カミザールの反乱がおこった。新教徒への迫害は、18世紀の後半までつづいた。その後19世紀にラングドックは急進主義の砦(とりで)となり、1907年にはブドウ栽培労働者の大規模な争議で大いにゆれた。
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