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一遍

1239~89 鎌倉時代の僧で、時宗の開祖。「捨ててこそ」を自らの信仰のキーワードとしたので、「捨て聖(ひじり)」とよばれた。諱(いみな)は智真。伊予の人。父は豪族河野道広。10歳のとき母をなくし、父の命で出家した。1251年(建長3)大宰府(だざいふ)にいき、法然の孫弟子の聖達(しょうたつ)のもとで浄土念仏(浄土宗)をまなんだ。ついで肥前の華台のもとで浄土の教えをうけ、名を智真とあらためた。52年(建長4)ふたたび聖達のもとにかえり、63年(弘長3)父の死により伊予に帰国するまでの12年間、そこで修行した。そののち、一度還俗(げんぞく)するが、ふたたび出家。一説には、あるとき子供がまわすおもちゃの輪鼓(りゅうご)をみて「輪廻(りんね)もまたかくのごときか」とさとって仏門に帰したともいわれている。

1271年(文永8)の春に信濃の善光寺に参詣(さんけい)、善導の教えを感得し、「二河白道(にがびゃくどう)図」をうつしえがいて伊予にもってかえり、草庵(そうあん)にかけて念仏に専心したという。74年には四天王寺、高野山さらには熊野権現(熊野詣)に参詣して、神のお告げをうけ、一遍と名のった。その後は、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、決定往生六十万人」と書いた木の札をくばりながら全国を遊行(ゆぎょう)、その足跡は九州から東北地方におよんでいる。その途中、89年(正応2)8月摂津でなくなった。その直前に、もっていたすべての経典や法具などをやきすて、「一代の聖教(しょうぎょう)みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」といったとつたえられている。

一遍の思想は、はるか昔、法蔵菩薩(ぼさつ)が阿弥陀仏になったときから、衆生の往生は決定しているという本覚(ほんがく)思想にもとづいたものだった。それゆえ南無阿弥陀仏の名号そのものに絶対的な力があるため、衆生の信と不信、浄と不浄(浄・不浄)などの別はいっさい関係なく、ひたすら名号をとなえればすくわれるという信仰が生まれた。その純粋な発露が踊念仏であった。

一遍の思想や生涯は、「一遍上人(しょうにん)語録」や「一遍聖絵(ひじりえ)」などでつたえられている。

一遍上人絵伝