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| I. | プロローグ |
イネ(稲)を栽培することで、西アフリカやアメリカ合衆国、イタリアなどでも栽培がおこなわれているが、日本をふくむアジアモンスーン地帯では主要な農業形態となっている。
イネ(アジアイネ)の起源地については諸説あり、いまだ確定はしていない。古くから東南アジア低湿地説があったが、日本の植物学者である渡部忠世(わたべただよ)らのアッサム・ヒマラヤ・雲南地方の高緯度地帯とみる説も有力とされてきた。しかし、1970年代に中国の長江(揚子江)下流域にあたる浙江省の河姆渡遺跡から前5000年にさかのぼる大量の栽培種の籾(もみ)や稲束が発見された。その後、同じ浙江省の上山遺跡で栽培種の籾殻が大量にみつかっており、前8000年ごろのものとされている。
また、長江中流域にある湖南省の彭頭山遺跡(ほうとうざんいせき)からは、野生種から栽培種への過程をしめす前7000年ごろの花粉や炭化米、籾痕(もみあと)のある土器などがみつかった。長江中流域の他の遺跡からは、野生種か栽培種か不明だが、前1万年より古い籾がみつかるなど、イネの起源地を長江流域とする説が有力となっている。
一方、イネの遺伝子分析の結果から、アジア各地で栽培されているジャポニカ種のうちもっとも原始的な品種がインドネシアで発見されている。しかしながら、稲作の起源が東南アジアであることを裏づけるような稲作の遺跡はまだみつかっていない。
| II. | イネの種類と特徴 |
| 1. | インディカとジャポニカ |
栽培されるイネには、大きくわけてジャポニカ(japonica:日本型)とインディカ(indica:インド型)の2種類があり、それぞれ栽培されている地域がちがう。また、イネは変異性(→ 変異)にとみ、世界に広く分布しているので、栽培方法によって水稲(すいとう)と陸稲にわけられるほか、栽培時期によってもさまざまな分類がなされる。
籾が丸みをおびていて、味が濃厚でご飯にすると粘りの強いジャポニカ種のイネは、日本人の好みにあい、なじみの深いイネであるが、世界的には、籾の形が細長く、粘りの少ないインディカ種のイネのほうが多く栽培されている。
ジャポニカ種のイネは比較的高緯度の地域で栽培され、日本をはじめ、朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江以北の平坦地(へいたんち)、アメリカのカリフォルニア州などで栽培されている。これに対してインディカ種のイネは、中国の長江以南、東南・南アジア各国の平坦地、アフリカ諸国など熱帯の主要米産国で栽培され、栽培面積や生産量はジャポニカ種のイネにくらべてはるかに大きい。→ 米
| 2. | 水稲と陸稲 |
灌漑水をもちいたり、水をたたえた耕地に栽培するイネが水稲である。灌漑をおこなわないで畑地に栽培するイネが陸稲である。もともとイネは水生植物であり、世界的にも水稲が圧倒的に多いが、東南アジアの山岳地帯などのように、水利がととのわず陸稲が重要な畑作物となっている地域もある。また、水稲の中には、東南アジアのメコン・デルタ(→ メコン川)やインドのガンガー(ガンジス川)流域のような洪水地帯で、深さ3mもの水におおわれた水田で栽培される浮き稲とよばれるものもある。
栽培時期の違いによっても、その時期の気候などにあわせて、いくつかの種類があり、インドやミャンマーで雨季に栽培する晩生種はアマンaman(冬米)、早生種はアウスaus(秋米)、乾季に栽培するイネはボロboro(夏米)とよばれている。
| 3. | 三大穀物 |
米は、コムギ、トウモロコシとならぶ世界の三大穀物のひとつである。とくに米はその栄養価値や食味上の特性のために、長い人類の歴史の中で世界各地へと広く伝播(でんぱ)し、保存されてきた。三大穀物のうち、米は世界でもっとも多くの人々の主食となっており、米を生産するための作物であるイネは、熱帯から温帯にかけて世界じゅうで広く栽培されている。栽培面積と穀実の生産量では、いずれもコムギについで第2位となっている。
| III. | 緑の革命と米 |
コムギ、トウモロコシ、米という世界の主要三大穀物を品種改良することによって、在来種とくらべて2~3倍もの高収量を可能にする品種が開発された。これは「緑の革命」とよばれ、第2次世界大戦後の世界の食料増産にもっとも重要な貢献をした。この開発は、多くのラテンアメリカやアジア諸国で穀物の増産をもたらし、まさに画期的な技術革新となった。
| 1. | 高収量品種 |
1962年にはフィリピンで国際稲研究所(IRRI)が設立され、IR-8などのイネの高収量品種が次々と開発され、やがて多くのアジア稲作諸国に新品種が普及することとなった。
技術的には、これらの新品種は矮小(わいしょう:背丈の低いこと)であり、多く肥料をあたえてもよく吸収するという耐肥性にとむ。また季節による日照量の変化に影響されにくい非感光性であるために、1年に2~3回は収穫可能であるという特徴をもつ。
しかし同時に、これらの高収量品種は、病害虫に対する抵抗力が弱く、しかも化学肥料をじゅうぶんに投入し、最適な水利条件を用意しなければ、高い潜在力を発揮できないという欠点をもっている。つまり、高収量という恩恵をえるためには、じゅうぶんな化学肥料と水、農薬による病害虫の化学的防除が不可欠の条件となるのである。その結果、稲作は化学肥料や農薬といった工業製品に依存するかたちへと姿をかえていった。
IRRIで開発されたIR-8などのイネの高収量品種は、1960年代中ごろから普及しはじめ、改良品種の出現とともに、70年代末までに熱帯アジアの水田面積の約3分の1、コムギについては全面積の半分以上にまで高収量品種が普及し、食料不足になやむ多くの発展途上国の増産に大きく貢献した。その結果、インドと中国では、80年代末までに食料輸入国から輸出国となった。インドネシアやフィリピンでも米の自給が、そしてパキスタンではコムギの自給が達成された。
| 2. | その限界 |
しかし、1980年代に入ると、緑の革命は新しい段階をむかえた。70年代末ごろまで順調にのびてきた灌漑面積と高収量品種の普及の伸び率は、多くの国で大幅に鈍化した。化学肥料や農薬は水田の土壌を汚染し、大量の水を供給するための灌漑施設によって表土には塩害が発生。農民たちは、新品種の種子や化学肥料、農薬の代金支払いによる経済的な圧迫をこうむることになった。また、イネの高収量にみあうほど需要がなかったことで、市場価格の暴落にみまわれた。その結果、収量が増加する一方で、多くの農民たちの貧困化が助長されることにもなったのである。
| IV. | アジアモンスーン風土と米 |
| 1. | 自給のための栽培 |
米は生産量では三大穀物に入るが、総生産量に対する貿易量の割合でみると格段に小さい。コムギやトウモロコシが、おもに販売や輸出という商業目的で生産される傾向が強いのに対し、米はアジアを中心に自給目的の生産が中心となっているのである。
| 2. | 米の重み |
イネが湿潤な気候をこのむ作物であるために、米はアジア、とくにアジアモンスーン地帯で多く生産、消費され、世界の米食民族も大部分が日本など東アジアや東南アジアに集中している。世界の米生産の90%以上がアジアに集中しており、同時に、アジアで生産される穀物の大部分は米となっている。
もちろん、欧米諸国においてもスペイン、イタリア、アメリカ合衆国などではわずかながら水田が存在し、稲作がおこなわれているが、日本やアジアの諸国では水田が圧倒的に多く、比較にならないほどの重要性をもっている。日本の歴史においては、これまで水田としてつかえる土地はすべて水田として開墾され、それが不可能な所だけが畑地としてつかわれてきたといえるほどである。
| 3. | 乾田と湿田 |
ところで、水田は、その状態や機能によって、次のように分類される。必要に応じてじゅうぶんに排水できる水田は乾田であり、これに対して、排水困難で常時水をたたえた湛水(たんすい)の状態にある水田を湿田という。さらに、河川、池沼や地下水などを水源として、灌漑施設によって灌水される水田を灌水田という。また、灌水施設を欠き、もっぱら天水をあつめて水稲栽培に利用する水田を天水田という。
| 4. | 湛水栽培 |
イネ(水稲)は、湛水条件で栽培される唯一の穀物で、生産力が高く、しかも安定している。これはイネそのものの優秀性のほかに、水田土壌が肥沃(ひよく)であることに由来する。アジア稲作地帯の人口密度の高さは、イネの高い生産性と安定性にささえられて生じたものである。
水田は、土壌有機物が分解されにくい、土壌の酸化還元電位(pH)が中性近くにたもたれる、土壌中のリン酸がイネに利用されやすい形態となる、イネが吸収するかなりの量の無機養分が灌漑水から供給される、雑草の発生が抑制される、などの特徴をもつ。これらは、いずれも水田が水を湛(たた)えることからくる特性である。
さらに、湛水下では有害な微生物センチュウが死滅し、有害物質もあらいながしてくれる。そのため、イネは同一の場所で何年もつくりつづけること(連作)ができる。同じイネでも、陸稲を同じ畑で2~3年もつくりつづけると、連作障害をおこし、収量はいちじるしく減少してくる。
一般に植物は、湛水条件では根が酸素不足となり生育できないが、水生植物であるイネは、酸素を地上部から根へ供給することのできる通気組織をもっているため、湛水条件でも生育が可能なのである。
| 5. | 表作と裏作 |
日本の水田においては、昭和40年代ごろまでは、夏季に水稲をつくった後、冬季には可能なかぎりムギ、ナタネ、野菜、牧草などが栽培されてきた。これらの水田の冬作物を裏作といい、夏作のイネは表作とよばれる。また、表作の水稲作の後につづいて裏作がつくられる水田は二毛作田であり、表作だけしか作付けされないものは一毛作田とよばれる。
| V. | 日本の稲作 |
| 1. | 日本の稲作の起源 |
弥生土器(やよいどき:→ 土器)の中には表面に稲作農耕を裏づけるイネの籾痕のあるものがあり、研究者の多くは、かなり以前に日本での弥生時代(→ 弥生文化)からの稲作文化の存在を予想していた。その後、各地で炭化米も発見され、低湿地などでみつかった農耕用木製品などとあわせて、戦前にはすでに日本での初期水田稲作農耕の規模や内容まで議論がすすんでいた。
近年は、縄文時代(→ 縄文文化)の遺跡や土器からイネの痕跡をしめす炭化米やプラントオパール(植物ケイ酸体)が発見されており、陸稲などイネ科植物の渡来の時期は縄文後期とする説が出され、それよりはやかった可能性までも指摘されるようになっている。しかし、九州地方を中心に日本列島で水田による稲作が本格化したのは縄文晩期から弥生初期のことであった。
九州地方には水稲の栽培種が中国、長江下流域の江南地方(福建、広東、湖南)からつたわったことがわかっているが、そのルートについては4つの説がある。
第1は、陸路で朝鮮半島に入り、玄界灘をわたって北九州へ、第2は、陸路で山東半島から東シナ海をわたって朝鮮半島に入り玄界灘をわたって北九州へ、第3は、江南から南シナ海をわたり朝鮮半島へ入り、さらに玄界灘をわたって北九州へ、第4は、江南から島伝いに沖縄・奄美諸島をへて九州へという説である。
このとき日本に入ったのはジャポニカ種だが、今後、朝鮮半島の考古学調査などで同種のイネが発見されればルート問題は解決されるだろう。
| 1.A. | 初期の稲作の実態 |
縄文晩期から弥生初期に九州地方につたわった水稲は、当然、稲作耕作者かその技術を知る人をともなったはずで、当時の大陸や半島の最新レベルにあわせて稲作の耕作地がきめられたようである。これまでみつかった初期水田耕作跡の立地は、谷奥地や後背湿地、氾濫原などさまざまである。弥生時代の水田は、はやい段階から畦畔(けいはん)により区画され、福岡市の板付遺跡では幅約80~100cm、高さ30cmの畦(あぜ)でかこまれ、群馬県高崎市の日高遺跡では丸太や小枝をくんで芯(しん)にした畦がつくられていた。
当時の水稲耕作の収量レベルは、出土例は少ないが、弥生前期から中期を中心とする福岡県小郡市の横隈鍋倉遺跡(よこくまなべくらいせき)や、奈良県田原本町の多遺跡(おおいせき)や唐古・鍵遺跡などでみつかった稲穂から、1反(たん:→ 尺貫法)当たり約60kg以下という見解も出ており、これは今日の平均である1反当たり約500kgの8分の1以下で、生産性はかなり低かった可能性がある。くわえて気候や病虫害などのマイナス要素があり、実際の収量はさらに低かったかもしれない。
| 2. | 新田開発と品種改良 |
日本の米の総生産量は、奈良時代が約100万t、江戸時代が約200万~300万t、明治時代が約600万~700万t、そして昭和20年代になると1000万tをこえるまでになった。これは、新田開発と土地改良、栽培技術の向上、そして品種改良によるものである。
| 2.A. | 新田開発 |
日本で新田開発が盛んにおこなわれたのは、条里制施行時代、戦国期から近世初頭、明治30年代の3つの時期である。
水田は谷間の沢田や山の棚田からはじまり、4~5世紀に古代国家が形成されるころは、盆地や沖積平野の周辺部に進出してくるようになって、奈良時代の水田面積はおよそ100万haに達していた。
しかし、その後は大河川の制御が困難だったため水田面積の拡大は停滞する。
| 2.A.1. | 戦国期、江戸時代 |
これをうちやぶったのが戦国大名たちである。彼らは築城や鉱山採掘技術を用水土木工事へ応用したのである。武田信玄は信玄堤(しんげんづつみ:→ 堤防)を、加藤清正は乗り越え堤をきずいて治水をおこなった。
徳川幕府も利根川の付け替え工事をおこなった。利根川はかつて現在の江戸川、中川筋をながれて江戸湾(→ 東京湾)にそそいでおり、関東平野は荒川、利根川、渡良瀬川がながれる不毛の低湿地であった。これを銚子方面に東進させ、荒川を西によせ、江戸川を開削することによって治水をおこない、新田が開発された。
また、関西では大和川の付け替え工事がおこなわれた。大阪平野は北東からの淀川と南からの大和川の合流する湿地帯であった。1700年代初頭には、河内平野を北上していた大和川を、現在のように堺のほうへ西進させる工事がおこなわれ、大和川跡に多くの新田が開発された。
こうして、1000年以上手つかずでのこされてきた大河川沿岸の沖積平野が、一挙に水田として活用されるようになった。
さらに、児島湾などのような浅瀬の海や印旛沼などの湖沼を干拓した新田開発もおこなわれた(→ 印旛沼干拓)。
その結果、江戸初期に120万haにすぎなかった水田面積が、江戸中期には160万ha、明治初期には250万haと大幅に拡大した。このような新田開発が可能になったのは、土木工事技術の飛躍的な進歩による。
| 2.A.2. | 明治以後 |
幕府の解体にあたっては、明治政府が士族授産のため大規模な開墾を実施した。また、第1次および第2次世界大戦前後も食料の確保あるいは失業人口の吸収などのため、政府によって大規模な開拓がはかられた。
| 2.B. | 品種改良 |
日本で組織的なイネの育種がはじまったのは、1893年(明治26年)に国立農事試験場が設立されてからである。それまでの品種改良の主体は、もっぱらイネを栽培する農民自身で、お伊勢参り(→ 伊勢信仰)や善光寺参りを利用して種子の交換をしたり、在来品種の中で自然に生起した変異体(→ 変異)の中から、優良個体をみつけて選抜する分離育種法がおこなわれていた。かつて、日本三大品種といわれた神力(しんりき)、愛国、亀の尾は分離育種法による民間育成品種である。
しかし、分離育種法では、ある程度選抜をつづけると、それ以上は改良の効果が期待できなくなる。そこで、1904年ころからは人工交配によって新品種をつくりだす交雑育種法が開始され、育種の効果が一段と高められた。その結果、水稲の単位面積当たりの収量(単収)は1ha当たり江戸時代に1~2tであったのが、1930年代では3t、さらに80年代になると5tに達するようになった。
| 2.B.1. | 耐肥性品種 |
その内容をみていくと、明治の初めから今日までの単収のいちじるしい増加は、窒素施用量の増加と、この条件に適した品種、すなわち短稈(たんかん)、強稈でたおれにくく、草型が直立で受光態勢がよいなどの性質をもった耐肥性品種の育成におうところが大きい。
| 2.B.2. | 耐病虫性品種 |
同時に、多窒素がもたらす各種の病害虫の発生を抑制するために、耐病性品種も重要な育種目標となった。とくにイネの病害虫の中で、いもち病がもっとも重視され、これに対する抵抗性を強化する育種がすすめられてきた。
| 2.B.3. | 耐冷性品種 |
北日本や山間高冷地では、耐冷性品種の育成が冷害の軽減と克服に大きく貢献している。耐冷性品種は栽培限界の北進をもたらした。北海道の稲作は、明治初年は道南の一部にかぎられていたが、赤毛、農林11号などの早生(わせ)耐冷性品種が育成されるたびに北進をつづけ、1930年代後半には北海道のほぼ全域で稲作が可能になった。
| 2.B.4. | 良食味米 |
一方、米の自給率の向上とともに良質化の要求も高まり、1960年代後半からは食味が良好であることが重視されるようになってきた。一般に、タンパク質とアミロース含量の高い米は、粘りが少なく、かたい米飯になり、それらの含量の少ない米は粘りのある、やわらかい米飯になる。コシヒカリなどが代表的な良食味米品種である。
| 2.B.5. | 直播栽培用品種 |
直播栽培(ちょくはんさいばい)は、所用労働時間の短縮と低コスト生産に有効な手段である。低温発芽性、初期伸育性、耐倒伏性などの特性をそなえた直播栽培用品種の育成がすすんでいる。
| 2.B.6. | 超多収、ハイブリッドライス |
米の低コスト生産および飼料など他用途利用を可能にする超多収品種の開発がすすめられている。この研究で開発された品種の単収は、従来の品種の1.5~2倍ときわめて高い。交雑によってつくられた雑種初期世代、とくに雑種第1代(F1:→ 一代雑種)の植物は、両親の平均あるいはそのいずれよりも生育が旺盛(おうせい)で収量も増大する場合が多い。この現象(雑種強勢:ヘテロシス)を利用した品種開発もおこなわれている。→ 雑種
| 2.B.7. | これからのイネの育種 |
近年では、組織培養、細胞融合、遺伝子組み換えなどバイオテクノロジーの育種への応用がこころみられている。
今後、栽培地域のいっそうの拡大をめざした耐塩性や耐旱性(たいかんせい)など環境ストレス耐性にすぐれた品種の育成、あるいは農薬による残留毒性や汚染問題が深刻になってきた今日、農薬の使用量をできるだけ少なくすることのできる耐病虫性品種の育成などがさらに重要になってくるだろう。
| VI. | 水田の多面的な役割 |
水田は、米という基礎的食料を生産しているだけではなく、集中豪雨から洪水をふせぐダムとしての役割をはたすなど、水源涵養機能(すいげんかんようきのう)とよばれる重要な役割をはたしている。水田はこれ以外にも、水質を浄化させ、地域の生態系を保全するなど、国土や環境を保全するという重要な役割をはたしている。これらの目にみえない価値を経済的に評価すれば、多大な経済効果をもつとの試算がなされている。→ウェットランドの「内陸のウェットランド」
水田でつかわれる灌漑用水の75%は地下水や河川水となり、下流で再利用されている。また、水田は畑、森林をふくめた農林地全体で土砂の流出もふせいでいる。上流部の水田域をコンクリートでかためて市街化すると、集中豪雨により下流の都市部で浸水被害がおきやすくなるなど、下流の都市環境にもさまざまな悪影響がおよぶのである。
日本の水田面積は昭和50年代以降、年々減少しつづけており、しかも山間地域での棚田が次々と耕作放棄されている。そこで、これらの水田の多面的役割をみなおすとともに、水田を保全し維持管理するための新しい政策対応がもとめられている。