稲作
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稲作
V. 日本の稲作
1. 日本の稲作の起源

弥生土器(やよいどき:土器)の中には表面に稲作農耕を裏づけるイネの籾痕のあるものがあり、研究者の多くは、かなり以前に日本での弥生時代(弥生文化)からの稲作文化の存在を予想していた。その後、各地で炭化米も発見され、低湿地などでみつかった農耕用木製品などとあわせて、戦前にはすでに日本での初期水田稲作農耕の規模や内容まで議論がすすんでいた。

近年は、縄文時代(縄文文化)の遺跡や土器からイネの痕跡をしめす炭化米やプラントオパール(植物ケイ酸体)が発見されており、陸稲などイネ科植物の渡来の時期は縄文後期とする説が出され、それよりはやかった可能性までも指摘されるようになっている。しかし、九州地方を中心に日本列島で水田による稲作が本格化したのは縄文晩期から弥生初期のことであった。

九州地方には水稲の栽培種が中国、長江下流域の江南地方(福建、広東、湖南)からつたわったことがわかっているが、そのルートについては4つの説がある。

第1は、陸路で朝鮮半島に入り、玄界灘をわたって北九州へ、第2は、陸路で山東半島から東シナ海をわたって朝鮮半島に入り玄界灘をわたって北九州へ、第3は、江南から南シナ海をわたり朝鮮半島へ入り、さらに玄界灘をわたって北九州へ、第4は、江南から島伝いに沖縄・奄美諸島をへて九州へという説である。

このとき日本に入ったのはジャポニカ種だが、今後、朝鮮半島の考古学調査などで同種のイネが発見されればルート問題は解決されるだろう。

1.A. 初期の稲作の実態

縄文晩期から弥生初期に九州地方につたわった水稲は、当然、稲作耕作者かその技術を知る人をともなったはずで、当時の大陸や半島の最新レベルにあわせて稲作の耕作地がきめられたようである。これまでみつかった初期水田耕作跡の立地は、谷奥地や後背湿地、氾濫原などさまざまである。弥生時代の水田は、はやい段階から畦畔(けいはん)により区画され、福岡市の板付遺跡では幅約80~100cm、高さ30cmの畦(あぜ)でかこまれ、群馬県高崎市の日高遺跡では丸太や小枝をくんで芯(しん)にした畦がつくられていた。

当時の水稲耕作の収量レベルは、出土例は少ないが、弥生前期から中期を中心とする福岡県小郡市の横隈鍋倉遺跡(よこくまなべくらいせき)や、奈良県田原本町の多遺跡(おおいせき)や唐古・鍵遺跡などでみつかった稲穂から、1反(たん:尺貫法)当たり約60kg以下という見解も出ており、これは今日の平均である1反当たり約500kgの8分の1以下で、生産性はかなり低かった可能性がある。くわえて気候や病虫害などのマイナス要素があり、実際の収量はさらに低かったかもしれない。

2. 新田開発と品種改良

日本の米の総生産量は、奈良時代が約100万t、江戸時代が約200万~300万t、明治時代が約600万~700万t、そして昭和20年代になると1000万tをこえるまでになった。これは、新田開発と土地改良、栽培技術の向上、そして品種改良によるものである。

2.A. 新田開発

日本で新田開発が盛んにおこなわれたのは、条里制施行時代、戦国期から近世初頭、明治30年代の3つの時期である。

水田は谷間の沢田や山の棚田からはじまり、4~5世紀に古代国家が形成されるころは、盆地や沖積平野の周辺部に進出してくるようになって、奈良時代の水田面積はおよそ100万haに達していた。

しかし、その後は大河川の制御が困難だったため水田面積の拡大は停滞する。

2.A.1. 戦国期、江戸時代

これをうちやぶったのが戦国大名たちである。彼らは築城や鉱山採掘技術を用水土木工事へ応用したのである。武田信玄は信玄堤(しんげんづつみ:堤防)を、加藤清正は乗り越え堤をきずいて治水をおこなった。

徳川幕府も利根川の付け替え工事をおこなった。利根川はかつて現在の江戸川、中川筋をながれて江戸湾(東京湾)にそそいでおり、関東平野は荒川、利根川、渡良瀬川がながれる不毛の低湿地であった。これを銚子方面に東進させ、荒川を西によせ、江戸川を開削することによって治水をおこない、新田が開発された。

また、関西では大和川の付け替え工事がおこなわれた。大阪平野は北東からの淀川と南からの大和川の合流する湿地帯であった。1700年代初頭には、河内平野を北上していた大和川を、現在のように堺のほうへ西進させる工事がおこなわれ、大和川跡に多くの新田が開発された。

こうして、1000年以上手つかずでのこされてきた大河川沿岸の沖積平野が、一挙に水田として活用されるようになった。

さらに、児島湾などのような浅瀬の海や印旛沼などの湖沼を干拓した新田開発もおこなわれた(印旛沼干拓)。

その結果、江戸初期に120万haにすぎなかった水田面積が、江戸中期には160万ha、明治初期には250万haと大幅に拡大した。このような新田開発が可能になったのは、土木工事技術の飛躍的な進歩による。

2.A.2. 明治以後

幕府の解体にあたっては、明治政府が士族授産のため大規模な開墾を実施した。また、第1次および第2次世界大戦前後も食料の確保あるいは失業人口の吸収などのため、政府によって大規模な開拓がはかられた。

2.B. 品種改良

日本で組織的なイネの育種がはじまったのは、1893年(明治26年)に国立農事試験場が設立されてからである。それまでの品種改良の主体は、もっぱらイネを栽培する農民自身で、お伊勢参り(伊勢信仰)や善光寺参りを利用して種子の交換をしたり、在来品種の中で自然に生起した変異体(変異)の中から、優良個体をみつけて選抜する分離育種法がおこなわれていた。かつて、日本三大品種といわれた神力(しんりき)、愛国、亀の尾は分離育種法による民間育成品種である。

しかし、分離育種法では、ある程度選抜をつづけると、それ以上は改良の効果が期待できなくなる。そこで、1904年ころからは人工交配によって新品種をつくりだす交雑育種法が開始され、育種の効果が一段と高められた。その結果、水稲の単位面積当たりの収量(単収)は1ha当たり江戸時代に1~2tであったのが、1930年代では3t、さらに80年代になると5tに達するようになった。

2.B.1. 耐肥性品種

その内容をみていくと、明治の初めから今日までの単収のいちじるしい増加は、窒素施用量の増加と、この条件に適した品種、すなわち短稈(たんかん)、強稈でたおれにくく、草型が直立で受光態勢がよいなどの性質をもった耐肥性品種の育成におうところが大きい。

2.B.2. 耐病虫性品種

同時に、多窒素がもたらす各種の病害虫の発生を抑制するために、耐病性品種も重要な育種目標となった。とくにイネの病害虫の中で、いもち病がもっとも重視され、これに対する抵抗性を強化する育種がすすめられてきた。

2.B.3. 耐冷性品種

北日本や山間高冷地では、耐冷性品種の育成が冷害の軽減と克服に大きく貢献している。耐冷性品種は栽培限界の北進をもたらした。北海道の稲作は、明治初年は道南の一部にかぎられていたが、赤毛、農林11号などの早生(わせ)耐冷性品種が育成されるたびに北進をつづけ、1930年代後半には北海道のほぼ全域で稲作が可能になった。

2.B.4. 良食味米

一方、米の自給率の向上とともに良質化の要求も高まり、1960年代後半からは食味が良好であることが重視されるようになってきた。一般に、タンパク質とアミロース含量の高い米は、粘りが少なく、かたい米飯になり、それらの含量の少ない米は粘りのある、やわらかい米飯になる。コシヒカリなどが代表的な良食味米品種である。

2.B.5. 直播栽培用品種

直播栽培(ちょくはんさいばい)は、所用労働時間の短縮と低コスト生産に有効な手段である。低温発芽性、初期伸育性、耐倒伏性などの特性をそなえた直播栽培用品種の育成がすすんでいる。

2.B.6. 超多収、ハイブリッドライス

米の低コスト生産および飼料など他用途利用を可能にする超多収品種の開発がすすめられている。この研究で開発された品種の単収は、従来の品種の1.5~2倍ときわめて高い。交雑によってつくられた雑種初期世代、とくに雑種第1代(F1:一代雑種)の植物は、両親の平均あるいはそのいずれよりも生育が旺盛(おうせい)で収量も増大する場合が多い。この現象(雑種強勢:ヘテロシス)を利用した品種開発もおこなわれている。雑種

2.B.7. これからのイネの育種

近年では、組織培養、細胞融合、遺伝子組み換えなどバイオテクノロジーの育種への応用がこころみられている。

今後、栽培地域のいっそうの拡大をめざした耐塩性や耐旱性(たいかんせい)など環境ストレス耐性にすぐれた品種の育成、あるいは農薬による残留毒性や汚染問題が深刻になってきた今日、農薬の使用量をできるだけ少なくすることのできる耐病虫性品種の育成などがさらに重要になってくるだろう。