江戸
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江戸
III. 江戸の発展

江戸の町の発展には、「天下普請」のほかにもいくつかの契機があった。そのひとつが治水の問題である。1616年(元和2)に開削がはじまった神田川によって日本橋付近は洪水の被害から解放されたし、神田上水や玉川上水が完成したことにより、江戸の飲み水だけでなく、武蔵野台地の新田開発も可能になった。こうして江戸近郊の農業生産力が向上し、栽培された蔬菜(そさい)類が巨大消費地江戸へ売りに出されるようになる。

市街地整備のうえでは、大規模な火災が転機となった。なかでも、1657年(明暦3)1月の明暦の大火では江戸市中の約6割が焼失したため、江戸城周辺に集中していた大名屋敷の分散や寺社の郊外移転がすすめられたほか、一部の町屋は強制的に移転させられ、広小路や火除地(ひよけち)が造成された。都市改造に影響しただけでなく、この大火後、日傭頭(ひようがしら)であった河村瑞賢が木曽の山林を買い占め、建築ブームで巨富をえて材木商としてのしあがっていく。のち、元禄年間(1688~1704)に上野寛永寺の造営事業をうけおい、豪商として台頭する紀伊国屋文左衛門も同様で、材木商から御用商人として成功するケースはこの時期の江戸豪商に特徴的である。そして、「火事とケンカは江戸の華」といわれた火災に対しては、1720年(享保5)に町奉行大岡忠相の手により、「いろは四十七組」の町火消が編成された。

1662年(寛文2)に上野、下谷、芝方面の街道筋と寺社門前300余町が江戸町奉行支配下にくわえられ、1713年(正徳3)には市街地周辺が町並地とされ、町数は933町にふえた。さらに19年(享保4)にも本所、深川が編入され、45~46年(延享2~3)には寺社門前地が寺社奉行から町奉行の管轄下にうつされ、92年(寛政4)江戸の町数は1668町に達した。1818年(文政元)には朱引(しゅびき)がおこなわれ、江戸府内の範囲が厳密に規定された。

江戸の範囲が広がるにつれて、1693年(元禄6)に35万人余だった町人人口も、享保年間(1716~36)には50万人をこえた。武家人口も、旗本、御家人の家族や奉公人をはじめ、各大名屋敷内に居住する諸藩の人口をくわえると50万人近くになり、寺社人口もふくめると、江戸中期に江戸の総人口は軽く100万人をこえていた。江戸はすでに世界一の大都市であった。また、江戸ではゴミ船による塵芥(じんかい)収集が早くからおこなわれており、永代島(えいたいじま)を皮切りに埋立地の造成に一役買ったほか、都市からでる屎尿(しにょう)も近郊農村の肥料として役だっていた。