| 江戸 | 項目ビュー | ||||
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| IV. | 「江戸らしさ」の形成 |
江戸の特色をあげる場合、まず武家人口の多さでは群をぬいていた。また、足軽、中間など、武家の陪臣(ばいしん)としてかかえられる武家奉公人や、都市建設の労働力となった日雇い労働者も多かったことから、女性より男性人口の比率が高かったのも特徴である。すでに17世紀中ごろには、江戸の旗本奴(やっこ)、町奴を中心に、かぶき者とよばれる反体制的存在があらわれ、若者たちの間でかぶき者のような男伊達(おとこだて)をきそう風潮が流行している。同様に、吉原などの遊里も繁栄し、遊郭や岡場所が女性のファッションや都市文化の発信源となっていった。
しかし、経済的には「天下の台所」である大坂が江戸をしのいでおり、金融や商人資本も江戸中期までは、依然上方のほうが日本の中心であった。酒や醤油などの生活用品も、上等品は菱垣廻船や樽廻船で上方からはこばれる「下り物」にかなわず、関東の品物は品質のおちる「下らない物」と認識されていた。古着でさえ「下り物」のほうが上等品としてあつかわれたほどである。このため、1694年(元禄7)上方商品の荷請問屋組合として結成された十組問屋(とくみどいや:→ 問屋)は、この時代の江戸の経済界で中心的な役割をになうことになった。
桐生の織物や銚子の醸造など、ようやく江戸周辺で産出される商品が「下り物」に対抗できるようになるのは18世紀以降である。練馬のダイコン、浅草の海苔、行徳の塩、深大寺のソバ、八幡(やはた)の甘藷(かんしょ:サツマイモ)などの特産品も生まれてきた。いわゆる江戸地廻り経済圏の成立である。1841年(天保12)天保の改革の一環として株仲間の解散が命じられたが、商人の自由競争を保証したのも、こうした流れにそう政策であった。しかしそうした発展は、一大消費地の江戸に独特の文化を生みだすとともに、深刻な都市問題も生むことになった。いき(粋)や通をもとめる意識や、歌舞伎、浮世絵、滑稽本や川柳、狂歌の流行は化政文化の特徴であり、それらは江戸の町人が担い手となって高められたものである。「江戸っ子」意識が芽生えるのもこのころである。
他方、天明の飢饉後、北関東の農村荒廃がすすむと、村をはなれて江戸に流入し、そのまま滞留する都市下層民が増加した。無宿の横行とともに、こうした下層民の存在は、江戸をはじめ関東一帯の治安問題にも関係し、大きな社会問題となった。彼らの参加によってひとたび打ちこわしなどがおきれば、騒動は連鎖的に拡大することになるため、寛政の改革および天保の改革では、都市流入民問題に対して旧里帰農令や人返しの法などが出されたが、効果はさほどあがらなかった。