高句麗
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高句麗
II. 高句麗の興亡史

204年に都を国内城(現、中国吉林省集安市)にうつして遼東方面をめぐって公孫氏や華北の諸王朝と攻防をくりかえした。また、中国が五胡十六国時代をむかえた4世紀前半には、戦乱にやぶれた多くの漢人が高句麗に亡命し、高句麗の政治や文化、外交などに影響をあたえた。355年には五胡十六国のひとつ前燕(ぜんえん)が故国原王を冊封(さくほう)、高句麗は朝鮮諸国のうちでは最初の中国王朝の内臣となった。

4世紀後半からは広開土王が遼東地方に領域を広げ、それにつづく長寿王の代には朝鮮半島にも広大な領土を獲得した。長寿王の427年には、平壌へ都をうつし、朝鮮半島における三国の対立が激化する中で領土は拡大をつづけた。しかし6世紀半ばになると、南から新羅の巻き返しにあい、さらに西方からは数度にわたる隋軍の侵攻をうけることになった。高句麗はこれらの侵略をすべてしりぞけたが、ついに668年、隋にかわった唐と新羅の連合軍にほろぼされた。

595年に高句麗から渡来して聖徳太子に仏教をさずけた僧の慧慈(えじ)に代表されるように、高句麗と当時の日本との間には文化的な交流が盛んにおこなわれていた。高松塚古墳の壁画にも、高句麗の壁画古墳(高句麗古墳)の影響がみられる。