| 検索ビュー | 御霊信仰 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
非業(ひごう)の死をとげた人々の怨霊をおそれ、それを神としてまつり、なだめて、平穏をえようという信仰。
| II. | 御霊会の始まり |
たたりをなす荒(あら)ぶる神をまつる習慣は古くからあったが、平安時代、平安京という都市の発展にともなって頻発するようになった疫病の流行を怨霊によるものと考え、それをまつる御霊会(ごりょうえ)がおこなわれるようになった。これによって、死者の霊を神としてまつることがはじまったと考えられている。
| III. | 神泉苑御霊会 |
もとは、民衆の漠然とした畏怖(いふ)にもとづいておこなわれていた御霊会だったが、863年(貞観5)5月20日、疫病の猛威がおさまらないため、朝廷の主催で神泉苑御霊会がおこなわれる。
このときまつられた御霊は、崇道(すどう)天皇すなわち桓武天皇の弟早良(さわら)親王・伊予(いよ)親王(桓武の皇子)・藤原夫人(吉子、桓武の妃、伊予親王母)・橘逸勢・文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らで、みな政治的抗争の犠牲者であるという共通点をもつ。
祭儀としては、まず僧侶による仏教経典の講説があり、宮廷の楽人や良家の稚児による音楽や舞によって怨霊を慰撫(いぶ)しようというものであった。この神仏習合的な儀式や華やかな歌舞の競い合いは、御霊会が伝統的な国家祭祀(さいし)とは系統を別にする民衆の狂信的衝動から発生したことを裏づける。
| IV. | 祇園御霊会 |
このあとも平安京近辺では、疫病流行のたびに民衆の主導による御霊会がもよおされた。869年(貞観11)にはじめられた祇園(ぎおん)御霊会はその代表的なもので、970年(天禄元)ごろには毎年6月14日におこなう恒例行事となり、朝廷・貴族の崇敬もうけるようになった。→ 祇園祭
| V. | 北野天満宮御霊会 |
903年(延喜3)に大宰府で没した菅原道真も御霊と考えられ、天神(→ 天神信仰)として北野にまつられて、8月5日に御霊会がおこなわれた。また、994年(正暦5)に北野船岡山(ふなおかやま)で、1001年(長保3)に紫野で疫神をまつる御霊会がもよおされ、神輿などもくりだされた。
やがて各祭場は固定化し、それぞれ祇園社(現在の八坂神社)、北野天満宮、今宮神社となり、神泉苑御霊会の御霊などをあわせまつった上(かみ)・下(しも)御霊神社とともに御霊信仰の拠点となっている。
| VI. | 都市の夏祭り |
けれども、信仰の中心は夏祭りで町中をねりあるく行列にあり、時代とともに、風流(ふりゅう)という衣装を着かざった踊りや、山鉾(やまぼこ)とよばれる大型の山車などの華美をきそいあう行事へと発展していった。
| VII. | 荒武者信仰 |
中世には、著名な荒武者(あらむしゃ)も御霊信仰の対象となった。鎌倉権五郎景政(かげまさ)が御霊大明神としてまつられたのがその代表で、五郎という名が御霊の音に近いことからか、ほかにも仁科五郎・加納五郎など五郎の名のつくものが多い。
江戸時代初期の千葉県佐倉の義民として、宗吾(そうご)霊堂にまつられる佐倉惣五郎もそのひとりにかぞえられる。