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三国時代

後漢滅亡後の220~280年に、中国には、魏・呉・蜀の3国が分立したが、この時代を三国時代とよぶ。

184年におきた黄巾の乱は、すでにおとろえていた後漢王朝の支配力をまったくうしなわせ、以後、私兵をもつ豪族が、各地で抗争をくりかえした。その中で、黄巾討伐軍の将のひとりだった曹操が頭角をあらわしてしだいに勢力を拡大、本拠地である(ぎょう)に献帝をむかえ、3世紀初めには華北東半の諸勢力を平定した。

その後曹操は中国の統一をめざして、南方へ出兵したが、208年の赤壁の戦で孫権・劉備の連合軍に敗北し、その計画はならなかったが、215年には漢中を制して、事実上、華北の支配者となった。いっぽう、劉備は益州(現、四川省)を攻略して領域とし、独立した勢力となった。すでに孫権は長江下流域を領しており、ここに中国は曹操・孫権・劉備に3分された。

216年に曹操は魏王となったが、彼はあくまで漢の臣下という立場をとりつづけ、また孫権と劉備も同じように漢の臣下と称したため、漢朝は形式的に存続した。しかし、220年に曹操が死去すると、子の曹丕(そうひ)は献帝に帝位をゆずらせて文帝となって、魏王朝をひらいた。前漢景帝の子孫を名のる劉備はこれに対抗し、221年に漢を再興するとして帝位につき、蜀漢、いわゆる蜀を建国、さらに孫権は一時魏に臣下の形をとって呉王となったが、229年に彼もまた即位して皇帝を名のった。

こうしてしばらくは3国が鼎立(ていりつ)したが、234年に蜀の宰相、諸葛孔明が亡くなると、魏の圧力をささえきれなくなり、263年に首都成都が陥落し、蜀は滅亡した。その後、華北の魏と江南の呉が対立する時代がつづいたが、265年、弱体化していた魏では、権臣の司馬炎が帝位について晋王朝をひらき、魏は滅亡、呉も孫権の死後は内部抗争によって国力がおとろえ、280年に、首都建業(現、南京)が晋軍の攻撃によって陥落し、三国時代はここに終結した。