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| II. | 政治 |
満州族は、中国東北地方で半農・半牧生活をおくっていたツングース系民族で、12世紀に金をたてた女真族を祖とし、自らをマンジュ、すなわち満州とよんでいた。明代には明朝政府の間接統治をうけ、女真族も分裂していたが、16世紀末に、建州女真からヌルハチがでて女真族を統一、1616年には後金国をたて、明が派遣した討伐軍を大破した。ついでヌルハチは遼東平野に進出して25年には瀋陽に遷都した。
ヌルハチのあとをついだホンタイジは、1636年に即位すると、国号を大清にあらため、皇帝権力を強化するために漢人を優遇、八旗など満州族独自の軍制度にくわえて中国式官僚制度をとりいれた。こうして満州人を支配貴族とする清朝の満漢二重体制の基礎ができあがった。次にたった順治帝の時代に、李自成の反乱によって44年に明は滅亡、山海関をまもっていた明の将軍呉三桂は、関をひらいて清軍をむかえいれ、李自成軍をおいはらった。北京に入城した清軍は、南下をつづけて明の復興をめざした諸王をやぶり、次の康熙帝の代に、呉三桂らがおこした三藩の乱を鎮圧、さらに83年に台湾の鄭氏を降伏させ、全中国を統一した。
この康熙帝および雍正帝、乾隆帝と3代つづく治世が、清の最盛期だった。彼らはいずれも中国の伝統や文化を尊重して漢人官僚を積極的に登用し、租税の減免、黄河の治水、官吏の綱紀粛正などをおこなって社会を安定させた。しかし乾隆帝の晩年には政治がみだれはじめ、各地で農民一揆(いっき)がおきるようになった。
19世紀にはいると、ヨーロッパ列強による中国進出がはげしさをまし、とくに中国市場への販路拡大をねらうイギリスは、1840年にアヘン戦争をひきおこして南京条約をむすばせ、その結果、上海など5港が開港し、香港はイギリスの植民地となった。さらにアメリカ、フランスも不平等条約をおしつけ、中国の半植民地化がはじまった。自由貿易と国際法に不慣れな清朝は、その後も列強との戦争にひきずりこまれ、56年のアロー戦争、84年の清仏戦争、94年の日清戦争とたてつづけに敗北、そのつど巨額の賠償金を支払わされた。
こうした敗北のつけは民衆にまわされることになり、反清や反列強の民衆運動が活発となっていった。1851~64年の太平天国や同時期の捻軍の反乱、60年から増加した仇教運動などである。いっぽう、清朝内にはヨーロッパの技術をとりいれて富国強兵をめざす動き、いわゆる洋務運動があらわれたが、日清戦争の敗北によっていったん挫折し、また、清朝の支配体制を日本の明治維新にならって立憲君主制にかえようとする変法運動もおきたが、保守派の反撃によって失敗した。日清戦争後はげしくなった列強による中国本土の直接分割の傾向は、義和団運動によりおさまったが、辛丑(しんちゅう)条約によって、清朝の列強への従属はいっそう深まることとなった。
こうした事態に対し、列強の言いなりになる清朝を打倒しなければ中国そのものがほろんでしまうという考えが急速にひろがり、革命運動がもりあがった。清朝政府は国会の開設を約束するなどの対策をうちだしたものの、一時しのぎの域をでず、1911年に辛亥革命が勃発(ぼっぱつ)、翌12年、革命派は孫文を臨時大総統として南京に中華民国の成立を宣言した。清朝最後の皇帝溥儀は退位においこまれ、ここに中国最後の王朝は幕をおろした。