検索ビュー 菅原道真

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菅原道真
I. プロローグ

845~903 平安中期の学者、政治家。後世、菅公(かんこう)といわれ、学問の神様としてあがめられた。また遣唐使の中止を建議したことでも著名。

II. 波瀾万丈の生涯

文章(もんじょう)博士の菅原是善の3男で、母は伴(とも)氏出身。18歳で文章生となり、877年(元慶元)には文章博士となった。10年後に讃岐守(さぬきのかみ)として赴任。在任中に中央で宇多天皇と藤原基経の間に阿衡紛議がおこり、良識ある立場で基経に自分の見解をつたえたという。帰京後、宇多天皇に重くもちいられたが、それは藤原氏の専横をおさえようとするためでもあった。

891年(寛平3)、基経が没すると蔵人頭(くろうどのとう)に就任、894年には遣唐使に任命されたが、唐の戦乱や唐からまなぶ意義がうすれたことなどを理由に申請して中止させ、以後遣唐使はなくなっている。その後は基経の子の時平とならんでめざましい出世をとげ、中納言さらに権大納言(ごんのだいなごん)へとすすみ、899年(昌泰2)にはついに右大臣に任じられた。

その当時時平は左大臣で、大臣の席が藤原氏に独占されつつあった。宇多上皇の後ろ盾があったにしろ、学者出身の道真の大抜擢(ばってき)には、反発も大きかった。2年後の901年(延喜元)醍醐天皇を廃しようとした罪で、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷される。事件は時平の陰謀だとされるが、真相は明らかではない。大宰府におもむいた道真は、配所で謹慎、望郷の中で2年後に没した。

その死後、清涼殿に雷がおち、関係した人がなくなるなどの異変があいついだために、御霊(御霊信仰)となった道真のたたりだとの考えが京の人々に広まった。その結果、923年(延長元)には罪の取り消しがなされ、のちには正一位太政大臣がおくられた。京都の北野天神は、10世紀半ばに道真の怨霊をしずめるためにたてられ、以後天神信仰は雷神、農業神との関係もあり、庶民に広くうけいれられるようになった。また、すぐれた学者だったことから学問、芸道の神としても崇拝された。伝承・伝説化した道真をかたる作品は多いが、鎌倉初期の「北野天神縁起」(北野天満宮蔵)は道真の生涯と霊が雷神になったという伝承をえがいたもので、後世に大きな影響をあたえた。

III. 文人、学者としての業績

そもそも文章博士であり、文人としても学者としても道真は当時の最高峰の人物であった。史書編纂においては、宇多天皇の命を奉じて「類聚国史」(892)を編述し、また、六国史の最後にあたる「日本三代実録」(901)の編纂事業にも大きくかかわった。

文人としては、まず「菅家文草(かんけぶんぞう)」12巻(900年成立)と「菅家後集」1巻(903年成立)にまとめられた比類ない漢詩文がある。道真の漢詩は純粋に唐風のものではなく、国風文化勃興(ぼっこう)を背景に和臭をおびた独自の格調高い詩風をもっている。和歌にもすぐれ、「古今和歌集」以下の勅撰集に34首がとられている。大宰府配流のおりに詠(よ)んだとされる「こち(東風)ふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」(「拾遺和歌集」)はとくに有名であり、のちに飛梅伝説を生みだした。また、百人一首にも「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに」がとられている。