相撲
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相撲
II. 歴史

相撲の始まりは「古事記」にあるタケミカヅチノカミ(建御雷神)とタケミナカタノカミ(建御名方神)との国譲りの力比べといわれる。「日本書紀」には垂仁天皇の7年に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が大和で相撲をとり、宿禰が蹶速をふみ殺したとあり、宿禰は相撲の始祖とされている。しかし、これらは神話伝説にすぎない。

1. 勧進大相撲

五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願する農耕の儀礼としてはじまった相撲は、8世紀に入って神前に奉納する神事相撲になり、821年(弘仁12年)には相撲節会として宮中の儀式にさだめられた。その後、武士の台頭とともに、公家から武家の相撲へとうつる。江戸時代になると職業化した相撲集団がふえ、京都・大坂・江戸をはじめ、各地で神社や寺の建立・修復の資金をえる名目で勧進相撲がおこなわれた。それがプロとしての大相撲へと発展した。1761年(宝暦11年)10月場所の江戸番付には「勧進大相撲」とあり、そのころ1場所晴天8日の年2場所制が確立、81年からは晴天10日になった。89年(寛政元年)11月、谷風梶之助と小野川喜三郎にはじめて横綱免許があたえられ、横綱土俵入りがゆるされた。ここでいう「横綱」とは、しめ縄(横綱)をつけて土俵入りをすることをゆるされた者という意味で、今のような番付上の最高位をさすものではないが、これが現在の横綱の始まりで、寛政の黄金時代をつくった。谷風の死後、無敵の雷電為右衛門が16年にもわたって番付上の最高位である大関の座を占めた。1833年(天保4年)から両国・回向院が興行場所としてさだまった。

2. 明治期~第2次世界大戦前

1889年(明治22年)にそれまでの相撲会所が東京大角力協会(おおずもうきょうかい)になり、90年5月、西ノ海嘉治郎(初代)がはじめて番付に「横綱」と明記された。1903年5月場所後、常陸山谷右衛門と梅ヶ谷藤太郎(2代目)が同時に横綱にのぼり、寛政とならぶ黄金時代をむかえた。09年には回向院境内に国技館が完成して相撲人気に拍車がかかり、それとともに個人優勝制度・優勝額の掲揚・東西対抗の優勝制度などがきめられた。大正期は太刀山峰谷右衛門、栃木山守也の両横綱の天下で、ともに優勝9回を記録した。23年(大正12年)5月から11日興行。25年財団法人大日本相撲協会が認可され、27年(昭和2年)東京と大阪の両協会が合併して年4場所になり、大日本大角力協会、日本大角力協会をへて28年5月に大日本相撲協会が確立した。同年1月、日本放送協会(NHK)のラジオ相撲放送開始にともない、仕切時間(幕内10分、十両7分、幕下5分)がもうけられ、31年4月の天覧相撲を機に、土俵の直径が3.94mから4.55mに拡大された。なお現在の仕切制限時間は幕内4分、十両3分、幕下2分である。

1932年1月、改革をとなえる力士たちが大量に脱退して危機をむかえ、土俵はさびれた。それをすくったのが双葉山定次である。36年1月から39年1月にかけて69連勝を記録、5場所連続全勝優勝をとげ、戦争景気とあいまって空前の相撲人気をもたらした。37年5月から13日制、40年1月から15日制となった。

3. 戦後の大相撲

その後、空襲、敗戦により大打撃をうけ、興行場所も転々とした大相撲だが、本場所の開催されない年はなく、1947年6月から優勝決定戦制度を実施、11月には、系統別総当たりにして殊勲・敢闘・技能の3賞をもうけた。50年には横綱審議委員会が生まれた。53年から年4場所(1、5、11月東京、3月大阪)になり、5月からテレビ放送開始。54年9月、蔵前国技館完成、55年5月、昭和天皇の本場所観戦と、復興ぶりはいちじるしいものがあった。さらに57年から11月九州場所が、58年から7月名古屋場所がふえて年6場所制になり、日本相撲協会と改称、65年1月から部屋別総当たり制が実施された。土俵は栃錦清隆・若乃花幹士(初代)両横綱の「栃若時代」から、柏戸剛・大鵬幸喜両横綱の「柏鵬時代(はくほうじだい)」へとうつった。大鵬の人気は高く、32回の優勝を記録した。その後、輪島大士が学生相撲出身ではじめて横綱になり、学生からの角界入りが増加した。その輪島に対抗した北の湖敏満や、千代の富士貢という強い横綱が活躍し、千代の富士は31回優勝、53連勝を記録し、89年(平成元年)9月には相撲界初の国民栄誉賞にかがやいている。

4. すすむ国際化

「角聖」といわれた常陸山(ひたちやま)がアメリカにわたり、ホワイトハウスで土俵入りを披露したのは1907年(明治40年)。栃木山も引退後にアメリカのハワイで相撲を指導したが、相撲の国際化には時間がかかった。62年(昭和37年)のハワイ公演でようやく本格的な海外巡業が実現した。ハワイからジェシー・クハウルアが来日して高砂部屋(たかさごべや)に入門し、高見山大五郎のしこ名で初土俵をふんだのは64年3月。巨体を利して関脇までのぼり、72年7月には外国人力士として初の幕内優勝をとげた。その後、280kgをこす小錦八十吉が大関になって横綱をうかがい、高見山の東関部屋に入った200cmをこす曙太郎が93年(平成5年)1月場所後に外国人初の横綱へ昇進し、2001年1月に引退するまで11回優勝している。曙につづいて2人目の外国人横綱となった武蔵丸光洋をふくめ、かつて外国人力士はハワイ出身が中心だったが、最近では外国人として3人目、4人目の横綱となった朝青龍明徳、白鵬翔などモンゴル出身の力士がふえている。08年12月末時点では外国人力士が55人、出身国もモンゴルのほか、ロシアや東欧、中央アジア、中華人民共和国(中国)、大韓民国(韓国)、ブラジルなど12カ国にのぼり、相撲も国際化の時代をむかえている。なお、02年2月以来、日本相撲協会は1部屋1人に制限する外国人力士枠をもうけている。

曙や武蔵丸とともに平成の大相撲をささえてきたのが二子山親方(元大関貴ノ花)を父にもつ若乃花勝、貴乃花光司の兄弟横綱だった。しかし2000~01年に若乃花と曙はあいついで引退、さらに03年に貴乃花、武蔵丸も引退してから、3年半にわたって朝青龍の一人横綱時代がつづいた。その後07年5月場所後に白鵬が横綱に昇進、モンゴル人力士2人が土俵をささえることになった。

5. 不祥事と陰惨な事件でゆらぐ相撲協会

2007年8月、朝青龍が巡業をやすんで母国でサッカーの試合に出たことから、日本相撲協会によって2場所出場停止の処分をうけた。朝青龍には、以前から横綱としての品格に欠けるとの角界内外からの批判があり、それとからんで外国人力士の増加と、日本の伝統にこだわる相撲界との折り合いが話題になってきたが、その問題がこの事件でよりいっそう浮き彫りにされた。

また同年9月には、時津風部屋の序ノ口力士・時太山(ときたいざん)が、先輩力士たちによる暴行で死亡した事件が明るみに出た。これは、7月名古屋場所を目前にした6月下旬に愛知県犬山市でおきたもので、時津風親方(元小結・双津竜(ふたつりゅう))ら部屋関係者は「ぶつかり稽古(げいこ)中の不慮の事故」と説明していた。しかし、時太山の両親の要望による解剖や兄弟子の証言で、親方の指示による兄弟子のリンチのはてに死亡したものと判明した。10月初め、日本相撲協会は緊急理事会を招集し、時津風親方の解雇処分を決定。それとともに協会理事らは、北の湖理事長の4カ月50%をはじめとする給与自主返上をもうしあわせた。なお暴行に関与した兄弟子たちの処分は、愛知県警察の捜査の結論が出るまで保留とされ、時津風部屋は、部屋の最年長力士、時津海が現役を引退して継承することになった。

日本相撲協会は事件が明らかになった当初、警察の捜査をまって処分を検討する意向をしめしていたが、監督官庁の文部科学省から協会独自の調査をもとめられ、ようやく処分を決定するにいたった。以前からさわがれている八百長問題や、朝青龍問題でも、日本相撲協会の対応のまずさが問題視されてきたが、今回もその当事者能力と責任感の欠如が鮮明になった。なお、2008年2月7日、愛知県警察は元時津風親方と兄弟子3人を傷害致死容疑で逮捕するにいたった(兄弟子3人は2008年12月、名古屋地方裁判所で執行猶予付き有罪判決をうけ、検察側、弁護側ともに控訴せず09年1月に刑が確定)。

2008年8月にはロシア出身の力士、若ノ鵬が大麻入りタバコを所持していたことで警視庁に逮捕され、相撲協会から解雇処分をうけた。さらに9月には日本相撲協会の抜き打ち検査により、ロシア出身の兄弟力士、露鵬と白露山の大麻吸引が発覚。これに対し協会の臨時理事会は2人を解雇するとともに、白露山の親方でもある北の湖理事長の辞任をみとめ(理事は退任せず)、後任に元横綱三重ノ海の武蔵川理事を選出した。

また2009年1月末には、幕内経験もある十両力士の若麒麟(わかきりん)が大麻所持の現行犯で逮捕され、2月初めに日本相撲協会を解雇されるという事態が生じた。日本人力士の薬物汚染に衝撃をうけた協会は、力士、親方、行司、呼び出し、床山ら協会員全員に対する抜き打ちの尿検査実施を決定した。