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太平洋戦争
I. プロローグ

1941年(昭和16)12月8日から45年9月2日の日本の降伏文書調印までの、日本と連合国との戦争。アジア太平洋戦争ともいう。31年の満州事変からはじまる日本と中国の戦争(十五年戦争)の最終段階で、第2次世界大戦の一部を構成する戦争でもあった。日本では大東亜戦争とよんだが、これは開戦直後に東条英機内閣が支那事変(日中戦争)をふくめた呼称として決定したもので、敗戦までつかわれた。この戦争は日米戦争という視点だけにとどまらず、日本の侵略・植民地支配にアジア諸民族がはげしい抵抗運動を展開した点できわめて重要であり、その意味からアジア太平洋戦争として位置づけることができる。

II. 開戦までの経過

1939年9月、ヨーロッパではヒトラーのひきいるドイツがソ連と不可侵条約をむすんでポーランドへの侵攻を開始。これに対し、イギリスとフランスはただちにドイツに宣戦を布告し、第2次世界大戦がはじまった。翌年にはイタリアがドイツ側について参戦するとともに、ドイツ軍がパリを占領してフランスを降伏させた。

いっぽうアジアでは、1937年(昭和12)の盧溝橋事件をきっかけにはじまった日中戦争が泥沼化していた。ドイツがヨーロッパ西部戦線で勝利すると、日本国内ではこの機にドイツとの軍事提携を強化し、東南アジアのフランス、イギリス、オランダの植民地を占領して、日中戦争の長期化によって窮迫していた石油・ゴムなどの重要軍需物資を確保しようとする南進論が高まった。40年9月、アメリカやイギリスの対中国援助ルート(援蒋ルート)を遮断して南方進出の足がかりをつくるため、日本はフランス領インドシナ(仏印)のハノイに進駐して北部を占領(北部仏印進駐)。同月、日本はドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を締結し、さらに41年には日ソ中立条約をむすんで北方の安定をはかるなど、南進の準備態勢をととのえた。

こうした日本の動きはアメリカを刺激し、悪化した日米関係を打開するため、1941年4月から日米交渉がはじまった。しかしアメリカは日本の中国からの撤退を要求し、交渉は難航した。6月、ドイツが不可侵条約をやぶってソ連に侵攻し独ソ戦がはじまると、日本は関東軍特種演習(関特演)の名目でソ連との国境付近に70万もの大軍を集結させ、7月末にはフランス領インドシナの南部に進駐(南部仏印進駐)。これに対し、アメリカは全面的な対日石油輸出の禁止、在米日本資産の凍結などの措置をとるとともに、イギリス・中国・オランダと協力して対日経済封鎖(ABCDライン)をおこない、日米関係は戦争へとむかう最悪の局面にいたった。

1941年10月、日米交渉の継続を主張した第3次近衛文麿内閣にかわって、陸軍の実力者で開戦を主張する東条英機が内閣を組織した。翌月、アメリカの国務長官ハルは、日本軍の中国・インドシナからの全面撤退などを内容とする強硬なハル・ノートを提示。これにより日米交渉は決裂し、日本は12月1日の御前会議で最終的にアメリカ・イギリス・オランダとの開戦を決定、戦争への突入はさけられないものとなった。

III. 開戦と戦局の推移

1941年12月8日(ハワイ時間で7日)、日本はイギリス領マラヤのコタバル(マレー半島北東岸)への上陸を開始、さらにハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、事実上の戦闘状態にはいった。真珠湾攻撃では、日本の奇襲部隊が戦艦4隻を撃沈したほか航空機231機を破壊するなどアメリカに大損害をあたえたが、日本のアメリカへの宣戦通告が奇襲後となったため逆にアメリカの士気は高まり、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾をわすれるな)」が合言葉となった。同日、アメリカとイギリスが対日宣戦を、11日にドイツとイタリアが対米宣戦を布告し、世界戦争へと発展した。

ついで日本軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力を全滅させ、先制攻撃による勝利をえた。開戦後ほぼ半年のうちに、日本は香港・マレー半島・シンガポール・フィリピン・オランダ領東インド(蘭印:現インドネシア)・ビルマ(現ミャンマー)など西太平洋および東南アジアのほとんどの地域を占領、緒戦は日本優位のうちにすすんだ。

しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で日本が敗北し、制海・制空権をうしなったことを契機に戦局は逆転。同年後半からアメリカ軍を中心とする連合国軍が本格的な反攻を開始し、翌年以降、日本軍はガダルカナル島・アッツ島からの撤退をはじめとして、次々と後退を重ねた。

IV. 日本占領下の東南アジア

日本はこの戦争の目的を、欧米諸国の支配からアジアを解放し、共存共栄の大東亜共栄圏をつくりあげることだとして、1943年にはビルマやフィリピンの独立政府を承認したが、その実権は日本の手中にあった。占領地域では、石油・ゴム・ボーキサイトなどの資源を強引に調達し、現地住民を土木工事などにあたらせたほか、神社参拝の強制などをすすめたため、しだいに反日気運が高まった。とくにシンガポールやフィリピンでは、日本軍は多数の住民を殺害するなど残虐行為をおこなったため、抗日運動が各地にひろがっていった。

いっぽう日本国内では、政府・軍部による戦時国家体制が確立された。1942年に東条内閣の翼賛選挙により翼賛政治会が発足、また大日本言論報国会が結成され、きびしい言論・思想統制がおこなわれた。戦争がはげしくなると、あらゆる生産能力が軍需目的にむけられ、生活物資が不足し、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語に象徴されるように国民は耐乏生活をしいられた。日本の敗色が濃厚になった44年ごろからは学童疎開もはじまった。いっぽう、労働力不足をおぎなうため、勤労動員によって学生たちが軍需工場などにかりだされたほか、占領地域から多数の朝鮮人や中国人を強制連行し、鉱山・港湾などで重労働に従事させた。朝鮮に対しては44年から徴兵制を適用、日本人に同化させる政策を強化し、日本語の使用や、日本的家制度を導入するとともに、氏名を日本風にするなどを強制した。43年には学徒出陣もはじまった。

V. 第2次世界大戦の終結と日本の敗戦

1943年、アメリカ・イギリス・中国(蒋介石)の3カ国首脳がエジプトのカイロで会談し(カイロ会談)、日本への徹底攻撃と日本の植民地を独立または返還させる内容のカイロ宣言を発表。同年にはイタリア南部シチリア島に米英連合軍が上陸、枢軸国側の一角がくずれた。日本軍の敗色も濃厚となった。44年6月、最後の防衛線としていたマリアナ沖海戦で海軍の空母・航空機の大半をうしない、3月からのビルマからインド北東部へ進攻したインパール作戦も失敗して7月に中止、同月のサイパン島の陥落を機に東条内閣は退陣し小磯国昭内閣が成立した。

1944年7月にはアメリカ軍はグアム島に上陸、8月に1万8000人の犠牲をだして日本軍は陥落した。さらに10月のフィリピンのレイテ沖海戦で日本の連合艦隊が壊滅、このとき神風(しんぷう)特別攻撃隊がはじめて出撃した。同月アメリカ軍はついにフィリピンに上陸し、11月からは戦略爆撃機B-29による日本本土空襲が本格化した。

1945年3月の東京大空襲では約10万人が死亡、日本のおもな都市は空襲で焼け野原と化した。3月の硫黄島の戦での玉砕につづいて、4月にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸をはじめ、この沖縄戦で日本側は多くの非戦闘員をふくむ約18万8000人の死者をだした。ほぼ3カ月にわたる沖縄戦では、ひめゆり隊の編成で女子生徒らが動員され悲劇的な最期をとげたほか、日米両軍による県民虐殺事件がおこった。ヨーロッパでは5月ついにドイツが降伏、7月にアメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの3カ国首脳がベルリン郊外のポツダムで会談し、日本の無条件降伏をもとめるポツダム宣言を発表した。小磯内閣をひきついだ鈴木貫太郎内閣は、ソ連を仲介とする和平工作をすすめたが、すでにソ連は対日参戦の密約を2月のヤルタ会談でとりきめていた。

アメリカは日本のポツダム宣言拒否を理由に、1945年8月6日に広島、ついで9日に長崎に原子爆弾を投下、この間の8日にはソ連が日本に宣戦布告して満州(中国東北部)・樺太(サハリン)・千島列島などへの進攻を開始した。原子爆弾による被爆当日の死者は広島で約2万5375人、長崎で約1万3298人、その後の両市の被爆による死者は合計約30万人と推定されている(厚生省:1990)。日本政府と軍首脳部は天皇の裁断によってポツダム宣言の受諾を決定し、14日に連合国側に通告、15日には天皇自身のラジオ放送(玉音放送)を通じて、国民に知らせた。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で重光葵外相ら日本政府および軍代表が降伏文書に署名し、約4年間にわたる戦争は終了した。日本人の犠牲者は300万人以上、中国の犠牲者は軍人の死傷者が約400万人、民間人の死傷者は1800万人以上と推定されている。

VI. 戦後の日本と民主化

ポツダム宣言にもとづいて日本は連合国軍に占領されることとなり、1945年(昭和20)9月、東京にGHQ(連合国最高司令官総司令部)がおかれた。占領政策をきめる最高機関の極東委員会と、その下部機関である対日理事会がつくられたが、主導権は事実上アメリカがにぎっていた。以後6年8カ月余りにわたって、マッカーサー最高司令官の指令・勧告にもとづく占領政策がおこなわれ、日本の非軍事化と民主化がすすめられた。46年から東京裁判(極東国際軍事裁判)がはじまり、東条英機ら28人が戦争犯罪人として有罪判決をうけた。国家の指導者を国際法廷で処罰したのは、ニュルンベルク裁判とともに世界史上はじめてのことである(戦争犯罪)。