太平洋戦争
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太平洋戦争
II. 開戦までの経過

1939年9月、ヨーロッパではヒトラーのひきいるドイツがソ連と不可侵条約をむすんでポーランドへの侵攻を開始。これに対し、イギリスとフランスはただちにドイツに宣戦を布告し、第2次世界大戦がはじまった。翌年にはイタリアがドイツ側について参戦するとともに、ドイツ軍がパリを占領してフランスを降伏させた。

いっぽうアジアでは、1937年(昭和12)の盧溝橋事件をきっかけにはじまった日中戦争が泥沼化していた。ドイツがヨーロッパ西部戦線で勝利すると、日本国内ではこの機にドイツとの軍事提携を強化し、東南アジアのフランス、イギリス、オランダの植民地を占領して、日中戦争の長期化によって窮迫していた石油・ゴムなどの重要軍需物資を確保しようとする南進論が高まった。40年9月、アメリカやイギリスの対中国援助ルート(援蒋ルート)を遮断して南方進出の足がかりをつくるため、日本はフランス領インドシナ(仏印)のハノイに進駐して北部を占領(北部仏印進駐)。同月、日本はドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を締結し、さらに41年には日ソ中立条約をむすんで北方の安定をはかるなど、南進の準備態勢をととのえた。

こうした日本の動きはアメリカを刺激し、悪化した日米関係を打開するため、1941年4月から日米交渉がはじまった。しかしアメリカは日本の中国からの撤退を要求し、交渉は難航した。6月、ドイツが不可侵条約をやぶってソ連に侵攻し独ソ戦がはじまると、日本は関東軍特種演習(関特演)の名目でソ連との国境付近に70万もの大軍を集結させ、7月末にはフランス領インドシナの南部に進駐(南部仏印進駐)。これに対し、アメリカは全面的な対日石油輸出の禁止、在米日本資産の凍結などの措置をとるとともに、イギリス・中国・オランダと協力して対日経済封鎖(ABCDライン)をおこない、日米関係は戦争へとむかう最悪の局面にいたった。

1941年10月、日米交渉の継続を主張した第3次近衛文麿内閣にかわって、陸軍の実力者で開戦を主張する東条英機が内閣を組織した。翌月、アメリカの国務長官ハルは、日本軍の中国・インドシナからの全面撤退などを内容とする強硬なハル・ノートを提示。これにより日米交渉は決裂し、日本は12月1日の御前会議で最終的にアメリカ・イギリス・オランダとの開戦を決定、戦争への突入はさけられないものとなった。