| 検索ビュー | 茶の湯 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
茶の湯は、亭主と客がよりあっておこなう茶会(→ 茶事)を中心として、茶の湯独特の道具とその飾り方、主客の点前(てまえ)と作法、茶会の場としての茶室などを総合し、独自の演出と理念が追究される生活文化とみることができる。
| II. | 茶の湯の楽しみ |
日本では家庭でも会社でも、たずねてきた人に、まずお茶を出す。お客をあたたかくむかえることは、一杯のお茶からはじまるといってよい。この一杯のお茶の効果を最大限に生かすように、さまざまな美的要素をそそぎこみ、日本のもてなしの文化として体系化したのが茶の湯である。
茶の湯にはさまざまな作法や道具の約束、行動の型がきまっていて、たいへん儀礼的にみえるけれど、それは目的へ到達するための手段なのである。その中に身をおいてみると、自然に五感のすべてがじゅうぶんに活動し、心身ともに、こころよくなるようにはこばれていく。茶の湯での五感の楽しみとは、視覚をたのしませる道具の美術工芸、手に感じる茶碗(ちゃわん)のぬくもりや唇に感じるやわらかさといった触覚、料理や茶の味覚のたのしさ、嗅覚(きゅうかく)は茶室にたちのぼる香のかおり、聴覚をみたす水をくみあげる音や銅鑼(どら)のやわらかな響き、さらに道具やその取り合わせにこめられた亭主の心を読み解く知的な楽しみもつけくわわる。このように五感を総動員して、茶の湯の集大成である茶会はすすめられる。
茶の湯のもてなしは、ただ亭主が客をたのしませることだけを目的とするのではなく、亭主自身も同じように客からたのしませてもらうことが大切である。亭主と客がたがいにもてなしあうことで、つまり両者の共同作業によって茶会がすすむところに茶の湯の楽しみがある。
| III. | 茶の湯の歴史 |
| 1. | 喫茶習慣の伝来と定着 |
8世紀には中国で喫茶の習慣が広がり、その影響下に日本へも奈良時代には茶が伝播(でんぱ)していたと思われるが、確実な史料にはじめてあらわれるのは815年(弘仁6)、僧永忠が嵯峨天皇に茶を献じた「日本後紀」の記事である。しかし、当時の茶は団茶(蒸した茶葉をかためたもの)風のもので日本人の嗜好(しこう)にあわず、また中国文化の影響がおとろえるのと同時に、喫茶の習慣はほとんどうしなわれた。
12世紀末にいたり、禅僧・栄西が中国より抹茶の製造法と飲み方をつたえ、また「喫茶養生記」をあらわして茶の薬用効果を宣伝したので、武士・僧侶(そうりょ)社会に、しだいに喫茶の風習が定着した。さらに13世紀後半には、京都の高尾や宇治の茶園をはじめ、西大寺などの各寺院に付属の茶園などが開かれ、喫茶習慣が普及し、薬用飲料としてばかりではなく嗜好飲料(しこういんりょう)として支持をえるにいたった。
14世紀に入ると茶に対する嗜好は深まり、各地の茶の味をのみわける飲茶勝負などの茶の遊戯化がはじまり、やがて金品などをかける闘茶として規則もいろいろ工夫され流行をみた。もちいられる道具も中国から舶載された工芸品が登場し、また座敷飾りもすこぶる贅沢(ぜいたく)な室礼(しつらい:座敷空間の飾りつけ)があらわれた。
15世紀初期の作と思われる「喫茶往来」の中に、このような茶寄合をさして「茶会」という言葉がはじめてもちいられた。貴族化した室町幕府の武家文化の中にも唐物中心の室礼が発達した。将軍家の室礼をつかさどったのは能阿弥などの同朋衆で、彼らの室礼や茶の心得が「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」にまとめられた。
| 2. | 侘茶の大成、茶の湯の全盛 |
中世後期における都市の発達は町衆とよばれる富裕な都市住民を誕生させ、彼らは実力によって上層武士が所持していた名物(めいぶつ:由緒あるすぐれた茶道具)を買収するとともに、禅宗や連歌の影響のもとに従来になかった粗相(簡素)の美を表現する器物を新たに選択し、侘茶(わびちゃ)とのちによばれる新しい茶の湯を創造した。
村田珠光は侘茶の祖とされ、唐物と和物の調和をもとめ、「不足の美」を説き、精神的充足を追究した。その嗣子(しし)である村田宗珠、さらに十四屋宗悟(じゅうしやそうご)、宗陳らにひきつがれた侘茶は、堺の武野紹鴎によって大きな展開をとげた。紹鴎は貴族文化・禅宗文化を総合し、名物の世界を背景にしながら、一方で名物を否定し日常雑器を茶の湯にもちいるなど、わび(侘び)の理念と表現を具体的にしめした。
紹鴎の弟子の千利休はこうした侘茶の表現を、器物ばかりでなく、茶会の組み立て、懐石、点前作法、茶室露地など茶の湯の全体系につらぬき、さらにそれまでの見立てによって器物をえらんできたのに対し、楽茶碗(→ 楽焼)、竹花入などに新しい造形も指導し、ここに侘茶は大成された。
戦国時代の大商業都市である堺の経済力を背景に紹鴎が活躍し、津田宗及(そうぎゅう)、今井宗久などの豪商は利休とともに天下人の茶頭(さどう)として政治に深くかかわった。また、織田信長や豊臣秀吉の天下人をはじめとする戦国武将の強い茶の湯への渇望によって、1585年(天正13)の禁裏茶会、87年の北野大茶湯と、茶の湯は全盛期をむかえるが、91年利休が秀吉によって切腹させられると、しだいに変質してゆく。
利休の茶は世間の常識をやぶる創造性にとみ、下剋上の時代にふさわしい美意識につらぬかれていた。しかし天下人によって中央集権的な安定した政治秩序がもとめられてくると、茶の湯の上でも伝統主義へと回帰がすすみ、利休やその弟子の古田織部のような、既成の美を次々と破壊するような茶の湯は否定された。
| 3. | 三千家分立と茶の湯の遊芸化 |
寛永文化といわれる17世紀初期にはよりおだやかで安定した優美な美しさを主張する小堀遠州や金森宗和の「きれい数寄」(「きれいさび」ともいう)がもてはやされた。江戸中期には武家茶道は片桐石州の流が主となり、千家は利休の孫の千宗旦とその子供たちによって表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が成立し、その茶風は武家、町人の間に広がり、また宗旦の弟子山田宗偏、杉木普斎、藤村庸軒らによって地方に茶の湯が広まった。
またこの時代になると、茶の湯の伝書が木板で印刷出版されるようになる。このような茶道人口の増加によって、遊びとしての茶の湯をまなぶ人々がふえ、これに茶をおしえる職業的な茶人が登場し、ここに茶の湯の遊芸化とその上に家元制度ができあがってきた。遊芸としての茶の湯は、それまでの茶会中心の茶の湯ではなく、稽古(けいこ)そのものが茶の湯の目標となることで、習い事、芸事として地位を確立した。
18世紀中期~後期には、如心斎千宗左、一灯千宗室、川上不白などが協力して考案した七事式(しちじしき)といわれる集団での稽古法が人気を博したのも、遊芸化にともなう茶道人口の増加に対応するものといえよう。しかしその一方で、このような遊芸化に対する批判も登場する。名物道具の収集と研究をとおして点前中心の茶の湯を批判した松平不昧(ふまい。松平治郷)、茶事の中に精神性を追求した井伊直弼、点前の体系化によって修行性を強調した玄々斎(げんげんさい)千宗室など、幕末の茶人たちの遊芸化批判は、近代の茶の湯の出発を意味した。
明治維新による幕藩体制の崩壊は、有力大名の茶頭として扶持(ふち)をうけていた茶道家元を逼塞(ひっそく)せしめることになり、不要不急の遊芸たる茶の湯に対する世間の冷眼視もあって、茶の湯は急速に衰退し、茶道具の値段は下落した。
| 4. | 近代の茶の湯 |
やがて1890年代前半(明治20年代後半)にいたると、新興の政財界人の中で美術品に興味をもち、趣味として茶の湯をたのしむ数寄者(すきしゃ)とよばれる人々が登場し、ふたたび茶の湯は人気をあつめはじめた。数寄者の茶の湯は東山名物、中興名物、雲州名物(うんしゅうめいぶつ)などの名物茶器の鑑賞に興味があり、さらに従来の茶道具の枠をこえた仏教美術品などの高度の美術鑑賞を茶にとりこみ、茶の湯の中に芸術的要素を強めた。その結果、原三渓による造庭と古建築の保護、あるいは根津青山(根津嘉一郎)による根津美術館の創設など、文化遺産の継承に彼らは大きな役割をはたしたといえる。
昭和初期より、茶の湯界の様相は大きく変化した。明治期の衰退を挽回(ばんかい)すべく、茶道家元が女性の教養としての茶の定着につとめた成果があらわれ、女子教育の普及もあいまって、膨大な女性茶人が誕生し、それによって家元制は復活した。昭和前期より茶の湯は女性文化となったのである。第2次世界大戦後、日本の復興そして高度成長期を通じて茶道人口は増加しつづけ、空前の茶道ブームをひきおこして今日にいたっている。
| IV. | 茶の湯と日本文化 |
茶の湯は日本の文化全体の中では、けっして大きな存在とはいえない。しかし茶の湯には日本の文化のさまざまな要素が入っているし、またその逆に、さまざまな要素に影響をあたえているので、茶の湯をとおして日本文化をみることも、なかなか興味深いことである。そこで茶の湯がどのような要素からできているか、そしてそれぞれがどのような影響をあたえたかをみていく。
| 1. | 茶の湯成立の要素 |
茶の湯をみて感心するのは、その動作のうつくしさである。たとえば畳の上をあるくにも、すべるように自然に足がはこばれるが、注意深くみると、けっして畳の縁をふんでいないことに気づく。またすぐれた茶人のすわっているところをみると、肩や腕から力をぬき、背筋はまっすぐにのばし、体全体の重心が、へその下あたりにあつまって、どっしりと安定した姿勢をつくりだしている。あるいは客の前に茶碗がはこばれると、客は次の客に、お先にいただきますと会釈をし、正面をむいて、はこばれた茶碗を手にとると、正面からのむのを遠慮して少し茶碗をまわして、脇を手前にしてのみはじめる。こうした動作を通じて知らず知らず隣の客との間にしたしみが生まれ、客と亭主の間に言葉にならない会話が生まれているのである。
こうした茶の湯の動作は、たんに無駄がないというだけではなく、みる人をあきさせない優美さを演出する、数百年かけて洗練された末に生まれた動作であるといえる。20世紀になって茶の湯をまなぶ女性が急激にふえたのは、従来の武士や町人の作法よりも近代の女性にふさわしい作法を、茶の湯がすでにつくりあげていたからである。女性にとってだけではなく、茶の湯のふるまい方は、日本人のマナーとして影響をあたえてきたのである。
また、茶の湯でもちいられる道具は日本の美術工芸の発達に大きな影響をあたえた。たとえば、日本で歴史的、美術的に評価される書や絵画の多くは、茶室の掛物として鑑賞されてきた。また、陶磁器、竹工、金工(→ 金属工芸)、表具(→ 表具師)、染織、さらには漆器なども同様に、茶人によって高い価値を見出されてきた。日本の美術工芸の粋(すい)は、茶の湯にすべて内包されるといわれてきたのは真実である。同様に、茶室や露地の繊細な作りは、日本の造園(→ 日本庭園)や建築に大きな影響をあたえた。
茶の湯には、さらに2つの重要な要素がつけくわえられる。料理と菓子である。中世の宴会料理は食べきれない大量の料理でうめられ、その料理は当然、つめたく、かたくてまずかった。これを改革したのが茶人で、茶の湯の料理のことを懐石という。できたての料理がすぐに食膳(しょくぜん)にはこばれ、素材の風味や妙味をそこなうことなく食べられる。少しもあますことなく食べおえられる量が工夫され、1つ食べおわると次の料理がはこばれるコースができた(この時代のヨーロッパでは、順番にしたがってサービスする料理のコースはまだできていない)。この懐石はことに現代の日本料理に大きな影響をあたえ、今日でも日本の最高の料理は懐石とされている。
締めくくりの要素としては、わび(侘び)の思想である。それは、豪華で完全な美ではなく、不足の美あるいは余白のうつくしさというべきものへの志向であり、精神的な充足をもとめるものであった。茶の湯の完成に大きくかかわったわびの思想は、物質文化のゆきづまった現代にこそ見なおされるべきであろう。
| 2. | 茶の湯の見方と家元制度 |
次に、茶の湯の見方の中にある総合的な視点について注意をうながしたい。近代の西洋で発達した学問は日本にも大きな影響をあたえたが、その根本には分類と定義がいつももとめられる。その結果、美術研究では陶器、磁器、漆工、金工、ガラス等々が別々の研究となっている。しかし水指(みずさし)という茶の道具ひとつとっても、すべての材質がつかわれるから、水指の研究にはその全体の知識が必要なのである。つまり水指の材料や製造法からのみ考えるのではなく、水指をつかう立場、あるいは環境として生かす立場からの見方も同様にもとめられる。茶の湯はこうした総合的な学問研究の理想的な目標なのである。
茶の湯の道具はどのような場面でどのようにつかったらよいか、あるいはどのようにうつくしくふるまったらよいか。これらの体系が茶の湯の型であるが、これを簡単に身につけることはむずかしい。これを身につけるシステムが稽古である。数百年かけてつくりあげてきた茶の湯の型はたんなるマニュアルではない。その多くが文字で表現できない感覚的なもので、身体で会得する知識ともいうべきものだからである。動作の稽古は順番と型をおぼえれば完成するのではなく、動作の稽古を通して体が生まれ、体と動きにふさわしい心が生まれることが期待される。それは禅の修行に少し似ている。
最後に誤解されがちな家元制度についてふれておく。家元はこうした型の伝承者として利休以来の型をうけつぎ、その家元を中心に弟子たちの社会ができている。これを家元制度という。身体化された知識が生きたかたちで継承されるためには、家元の個性や能力も大切だが、それをこえた家――それは茶の湯に関するハードウェアとソフトウェアのすべての集約点といえる――の継承が必要となる。このようにのべると、家元は没個性で、制度は固定的、因習的と思われるが、そうではない。型が生き生きとつたえられるためには、時代や支持者の要請にこたえ、家元の個性と能力が要求され、その結果、茶の湯は少しずつ変化してきた。これからも変化していくであろう。しかしそれはことさら新しい型をもとめるのではなく、もっとも伝統的な型に新しい時代の精神をそそぎこむことで、かわっていくのであろう。言葉は古い言葉をもちい、心は新しい心をもちいる、と著名な歌人がかたっているが、それを可能にする茶の湯の制度が家元制度なのである。