| 検索ビュー | 風呂 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
湯につかったり、蒸気をあびて、体をあらう場所。また、そこにおかれる湯をはるための器をもさす。風呂は本来、蒸気風呂をさす語であったが、のちに湯につかる場所も風呂とよぶようになった。
| II. | 風呂の意義 |
入浴(沐浴:もくよく)は古来、宗教儀式の一環として清めの意味でおこなわれ、現在でもヒンドゥー教やイスラム教では沐浴が重要な意味をもっている。正統ユダヤ教のミクバ(沐浴)やキリスト教の洗礼も、儀式としての沐浴に起源をもつ。
古代ギリシャや古代ローマ(→ ローマ史)、また現代の西洋文化圏をはじめとするいくつかの社会では、入浴は健康をたもち、心をリラックスさせるうえで、大きな効果があると考えられている。また、古代文明時代、浴場は社交の場でもあった。今でもトルコ、イラン、日本の浴場には社交場としての機能がのこっている。
| III. | 古代の風呂 |
古代の入浴施設は、世界各地で発掘されている。たとえば、前2000年以前のモヘンジョ・ダロ遺跡、前1700~前1400年ごろのクレタ島のクノッソス宮殿、前1350年ごろに建設されたエジプトの王都アケトアテン(現テル・エルアマルナ:→ アマルナ文書)などである。クノッソス宮殿のものは浴槽に湯をためて沐浴する湯風呂で、今日の西洋式のバス・タブとまったくかわらない。
| 1. | 古代ギリシャ |
古代ギリシャの壺絵(つぼえ)には初期のシャワーをみることができ、ホメロスの「イーリアス」には桶(おけ)での入浴の記述がある。
ギリシャの公衆浴場は、演武場(ギュムナシオン)の付属施設としてはじまり、冷水しかつかわれなかった。しかし、前5世紀末ごろには、都市国家(ポリス)が運営する独立した浴場となり、蒸し風呂、熱い風呂、ぬるめの風呂、冷たい風呂などをそなえて、男性女性を問わず社交の場として利用される。
ギリシャの風呂は、のちのローマの風呂と同様に、体の運動をし、オイルをぬり、温度のちがう湯に順につかり、オイルと汗をぬぐいとり、ふたたびオイルをぬる、といった内容であった。
| 2. | 古代ローマ |
現在知られているローマ最古の風呂は、前2世紀につくられたポンペイのスタビアーネの浴場である。その構造は、ローマ帝国のほかの地域で発見された公衆浴場と共通で、運動場である中庭を中心として、周囲に更衣室(アポディテリウム)、熱い風呂(アルウェウス)と蒸し風呂(ラコニクム)をもつ暑い部屋(カリダリウム)、あたたかい風呂(テピダリウム)、冷たい風呂(フリギダリウム)が配置されている。また、女性用として同じ施設がもう一組、やや小ぶりにつくられていた。床はモザイクタイル張り、床と壁にうめこんだ管の中を熱い空気がながれて、部屋をあたためる仕組みで、水は遠くの水源から水道橋をとおしてひかれた。
1~4世紀にかけて、ローマには皇帝の手で5カ所に公衆浴場がつくられた。うち、ティトス、カラカラ、ディオクレティアヌスの3つの浴場が、広大な遺跡となってのこっている。これらの遺跡をみると、ポンペイの浴場にみられる諸設備にくわえて、売店、レクチャーホール、トレーニング設備、庭園、図書館などがあったことがわかる。
こうした公衆浴場は、社交生活の中心であり、また、休養、きばらし、娯楽の場であった。遺跡からは多くの美術作品が発見されている。女性の入浴には、1日のうちで男女の使用時間をわけたり、女性用に別個の施設がもうけられたりした。しかし、ローマ帝国末期に混浴がおこなわれるようになると、風紀がみだれ、悪評をよんだ。
| IV. | 中世の風呂 |
| 1. | 西ヨーロッパ |
初期キリスト教会(→ ローマ・カトリック教会)は、精神面の汚れのなさにくらべて、体の清潔さをさほどたっとばなかったため、個々人の入浴を奨励せず、むしろ古代ローマの公衆浴場におけるみだらなおこないをきびしく批判した。また、とくに寒冷な地域では、沐浴は身体にわるいと考えられ、悪癖とみなされた。このため中世の建築家は、給排水設備よりも防壁や暖炉に力をいれていった。
中世後期には、多くの都市に公衆浴場が存在し、さまざまな社会層の人々に休息や娯楽を提供していたが、それでもやはり浴場はきわめていかがわしいものというのが一般の見方であった。庶民の大部分は、ほとんど入浴と縁がなかった。
| 2. | ヨーロッパ北部 |
ローマの影響が少なく、教会の地位確立もおそかったヨーロッパ北部では、フィンランド人とロシア人の間で蒸し風呂(サウナ)が広まった。これは、ユーラシア大陸のステップを支配した古代スキタイ人の蒸し風呂をとりいれて発展させたものである。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、蒸し風呂を最初につくりだした民族のひとつとしてスキタイ人をあげている。彼らの蒸し風呂はフェルトの小さなテントの中に、赤く熱した石をいれ、この石に水をかけて蒸気を発生させ、あびるものであった。
フィンランド人やロシア人は家ごとに丸太づくりの部屋や小屋(フィンランド語で「サウナ」)をつくり、内側の壁にそってベンチをしつらえた。そこで焼けた石に水をかけて大量の蒸気を発生させ、汗をかく。次に、石鹸をつけてこすり、やわらかくしたシラカバの細枝で身体をたたき、ぬるま湯でながす。最後は冷水をあびたり、外の雪の中や、氷のように冷たい小川にとびこんだのである。
| 3. | イスラム圏 |
ヨーロッパ南西部から中東にかけてのイスラム世界(→ イスラム教)は、宗教上、衛生上、社会上の見地から沐浴をたっとび、そのための洗練された施設をつくりあげた。
裕福な人々は自宅に豪華な浴場をもち、モスクのある町にはかならず公衆浴場(ハムマーム)があった。スペインのコルドバのような大都市になると数百もの浴場があり、男性と女性が別々の浴場にかよっていた。
コンスタンティノープル(現イスタンブール)をはじめとするトルコの都市では、公衆浴場は古代ローマの場合と同じ役割をはたした。トルコの浴場は、大きなドームでおおわれて蒸気のたちこめる中央の広間の周りを小部屋がとりかこむ構造で、全体が大理石やモザイクでうつくしくかざられていた。ここでは心身のリフレッシュをしたり、友人とあったりしながら、1日をすごすことができた。反面、ローマの浴場と同様に、ときとして堕落の温床ともなった。
| V. | 近代~現代の風呂 |
16世紀、宗教改革の禁欲精神は入浴にとって逆風となり、ヨーロッパでもアメリカ大陸の植民地でも風呂に入る者はへった。
18~19世紀になると、世俗的な考え方が強まり、金持ちは健康のために温泉保養地(→ 温泉療法)にでかけるようになる。やがて、イングランドのバス、フランスのビシー、ドイツのバーデンバーデン、アメリカのニューヨーク州サラトガスプリングズといった温泉保養地で、1年のうち数週間をすごすのが流行となった。こうした保養地では、浴場の周辺に豪華ホテル、ショッピング街、コンサートホール、カジノなどが次々にたっていった。
19世紀の都市では、産業革命による工業化にともなって、環境汚染や病気が増加した。工場の排煙で空気はよごれ、労働者の集中で都市人口が急激に増加したことにより衛生状態が悪化したのである。やがて、ロンドンでのコレラ流行をきっかけに、入浴施設改善の必要性がさけばれはじめた。
その結果、19世紀末には上流階級の邸宅には、水道をひき、バス・タブ(木製、銅製、鉄製)をそなえたバスルームがつくられるようになった。市当局や民間企業は、一般大衆のための公衆浴場運営にのりだした。
20世紀後半には、清潔なのはよいことだという認識が一般にゆきわたり、都市住民のほとんどが、自宅に内風呂をもつようになった。現代の住宅には、通常1軒に1つ以上のバスルームがあり、シャワーも広く普及している。
| VI. | 日本の風呂 |
| 1. | 蒸し風呂の歴史 |
日本の蒸し風呂の原型といわれるのが、京都郊外の八瀬(やせ)につたわる竃(かま)風呂である。まんじゅう形につくった荒壁の竃の中で、生木や葉をたき、その灰をかきだしたあとに、塩水でしめらせた筵(むしろ)をしいて、その上に横になり、蒸気をあびた。これと類似した蒸し風呂が、石風呂、岩風呂、穴風呂などの名称で日本各地にのこっている。
奈良時代以降の寺院でも蒸し風呂はつくられ、17世紀に建築された西本願寺飛雲閣の黄鶴台にある蒸し風呂の場合は、板壁と板戸でかこわれた浴室の床を簀の子にして、下の釜(かま)からあがってくる蒸気をあびるようになっている。このほか、江戸で最初に開業した銭湯も蒸し風呂であった。
| 2. | 湯風呂の歴史 |
鎌倉時代に再建された東大寺大湯屋は、日本に現存する浴室のもっとも古い例で、大湯屋の中央の浴室の床に鉄製の浴槽がうめこまれている。横のかまどでわかした湯を、浴槽にうつして利用するようになっていた。なお、遺構として発見されたものでもっとも古いものは、平安前期の湯屋が京都府向日市の宝菩提院廃寺(ほうぼだいいんはいじ)の跡からみつかっている。井戸のほか、覆屋(おおいや)の中に口径1m以上の鉄釜で湯をわかせる大きなかまどがすえられ、撥水加工(はっすいかこう)された石敷きの水場もあった。
江戸初期の銭湯にみられる戸棚風呂は、浴槽に30cm程度しか湯をためず、下半身は湯につかり、上半身は蒸気をあびる蒸し風呂と湯風呂の中間的なものであった。
のちに肩まで湯につかる、ざくろ風呂が登場する。これは、浴槽の三方を壁でかこい、前面にざくろ口とよばれる背の低い入り口をもうけて、蒸気がにげたり、湯の温度がさがるのをふせぐようにしたものである。江戸時代の銭湯の多くは、この形式であった。
明治期になると、衛生上の問題から、この形式の風呂を改造するよう命令が出され、現在のような銭湯の浴槽になった。
風呂が一般の住宅にまで普及しはじめるのは、風呂桶用の大きな結桶(ゆいおけ)が量産されるようになった江戸時代後半以降のことである。江戸では結桶をつかった鉄砲風呂、関西では五右衛門風呂と形式はちがっていたが、燃料の確保が困難であったことから、普及は一部にとどまっていた。
都市部で現在のように内風呂が広く普及したのは、ガスが供給されるようになってからのことで多くは銭湯を利用していた。浴槽も今日ではホーローや繊維強化プラスチック(FRP)、ステンレスなどさまざまな材質のものがある。風呂、洗面、トイレが一室にくみこまれた欧米風のバスルームも一部に普及している。