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法隆寺
I. プロローグ

奈良県生駒郡(いこまぐん)斑鳩町にある聖徳宗の大本山。斑鳩寺(いかるがでら)などともいう。1993年(平成5)に法起寺(ほっきじ)などとともに「法隆寺地域の仏教建造物」として、日本ではじめての世界文化遺産(世界遺産)に登録された。

「日本書紀」には606年(推古14)に播磨国の水田100町が斑鳩寺に施入されたとあり、金堂の薬師如来光背銘には、用明天皇が病気回復をいのって造寺を発願(ほつがん)し、天皇がなくなったあと607年に推古天皇と聖徳太子が遺志をついで建立したとする。不明な点も多いが、推古天皇の時代の成立で、かつ斑鳩宮近くにあることから、これらはある程度みとめられるだろう。

670年(天智9)、伽藍のすべてを落雷で焼失。これは若草伽藍とよばれるもので、主軸を西に約20度かたむけた四天王寺式の寺院だった。焼失直後から再建に着手し、711年(和銅4)ごろまでに4度西にかたむいた現在の伽藍がととのったらしい。この伽藍は塔と金堂を左右に並立させた法隆寺式だった。しかし建物には前代の飛鳥時代様式がもちいられており、これは法隆寺にまつわる聖徳太子信仰が成立していたためと推測される。

聖徳太子を厚く信仰した僧の行信(ぎょうしん)は、739年(天平11)に斑鳩宮の跡地に八角円堂の夢殿(ゆめどの)を中心とした上宮王院(じょうぐうおういん:東院伽藍)を造営し、太子ゆかりの品々を多く収集・献納した。これが現在の法隆寺宝物の中心となっている。

923~925年(延長元~3)に講堂、僧坊の一部が炎上し、このときの修理、修復で講堂が8間から9間に拡張されたり、西院伽藍の回廊の長さが一部変更された。平安末期には聖徳太子をまつる聖霊院(しょうりょういん)が造営され、鎌倉時代には三経院(さんぎょういん)、西円堂(さいえんどう)などがたてられた。その後も小修理、改築はあったが大きな火災もなく、政府、摂関家、幕府などの保護もうけ、「聖徳太子絵伝」を秦致貞(はたのむねさだ:致真とも)が絵殿(えでん)におさめるなど多くの太子信仰者にまもられてきた。慶長年間(1596~1615)、元禄年間(1688~1704)に大修理をうけて伽藍を保持し、昭和期にも大修理(1933~53)がおこなわれている。

II. 再建非再建論争

「日本書紀」には670年(天智9)に斑鳩寺が焼失したとしるされている一方、「法隆寺資材帳」(747)では火災のことがまったくふれられていない。こうしたことから、西院伽藍が推古天皇の時代に創建されたものか、あるいは再建されたものかという論争が明治中期におこり、建築様式論などをふまえた再建非再建論争が約半世紀にわたってくりひろげられた。再建説は喜田貞吉、非再建説は関野貞が中心になり、考古学、歴史、美術史、建築史の学者たちをまきこんでの論争だったが、1939年(昭和14)、石田茂作によって西院伽藍東南方の若草伽藍跡が発掘調査されてから、670年(天智9)に若草伽藍が焼失し、西院伽藍はそれ以降に再建されたとする再建説が定説化した。

2001年(平成13)には奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)が、五重塔の心柱(しんばしら)を年輪年代学の測定法(→年代測定法の「年輪年代法」)によって科学的に調査し、心柱のヒノキ材は594年(推古2)ころに伐採されたものとの結果をえた。これは607年ころといわれる創建年代よりもさらに古いもので、再建説を支持するものとはならなかった。しかし、同研究所ではその後、昭和大修理などでとりかえられた五重塔の垂木板(たるきいた)などの年輪年代測定をすすめ、2003年(平成15)7月に現在の五重塔が663年(天智2)以降に建設された可能性が高いと発表。さらに2004年(平成16)7月にも金堂、五重塔、中門のヒノキやスギの部材を測定し、金堂の部材が668~669年(天智7~8)、五重塔のものが673年(天武2)、中門のものが685年ころに伐採されたと発表、670年(天智9)の火災以後に再建されたとする再建説が決定的なものとなった。

III. 文化財

所蔵品のうち、国宝、重要文化財指定は数百点にのぼる。

1. 建築

金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とする東院伽藍に大別される。西院伽藍の中心となる金堂、五重塔、中門、回廊は寺内最古の建造物群で、とりわけ金堂の創建期は7世紀中ごろから後半にさかのぼると考えられ、世界最古の木造建築として広く世に知られる。西院ではそのほかに、西室(にしむろ)および三経院、東室、聖霊院、食堂(じきどう)、綱封蔵(こうふうぞう)、鐘楼、経蔵、南大門、西円堂、大講堂など、奈良時代から室町時代にかけての建造物が多数のこっている。

東院伽藍は聖徳太子の斑鳩宮跡に造営されたとつたえられる。その中心に位置する夢殿は739年(天平11)ごろに創建された八角円堂で、聖徳太子追慕のために建立された可能性が高い。同じく東院の伝法堂は奈良時代の遺構では唯一の住宅風建築として貴重である。

2. 彫刻

飛鳥時代にさかのぼる名品が多い。金堂の鞍作止利作・釈迦(しゃか)三尊像は623年(推古31)に造立され、像容は中国北魏の様式にのっとっている。金堂にはほかにも、607年銘の薬師如来座像、四天王像があるが、薬師如来像に関しては銘文の年代と技法の遊離が指摘されている。また百済観音の名で知られる観音菩薩立像や救世観音(ぐぜかんのん)の異名をもつ夢殿の観音菩薩立像も著名である。

白鳳時代(はくほうじだい)の遺品には光明皇后の母、橘三千代(たちばなのみちよ)の念持仏(ねんじぶつ)とつたえられる阿弥陀三尊像や、夢違観音の名で有名な観音菩薩立像がある。奈良時代の遺品では五重塔初重の四面にそれぞれ維摩(ゆいま)・文殊(もんじゅ)の問答、釈迦涅槃(ねはん)、分舎利、弥勒(みろく)浄土を塑像であらわした塔本四面具が第1にあげられる。その他、西円堂の薬師如来座像、伝法堂の阿弥陀三尊像、上堂の釈迦三尊像、夢殿の行信僧都座像などがある。

平安時代の遺品も多彩で、金堂の地蔵菩薩立像、毘沙門・吉祥天立像や大講堂の薬師三尊像、夢殿の道詮律師座像などがある。なお太子信仰の隆盛から、聖霊院の太子講讃像をはじめ、夢殿の太子孝養像、絵殿の太子座像、南無仏太子像などさまざまな聖徳太子像がのこる。

3. 絵画・工芸

玉虫厨子(飛鳥時代)が著名である。これは古代建築をかたどった宮殿型の厨子と台座からなり、厨子の飾りには名称の由来となった玉虫の翅がしかれていた。さらに須弥座(しゅみざ)四面には本生図(ほんじょうず:ジャータカ)および霊鷲山(りょうじゅせん)浄土図が色漆で描かれている。同じく重要な作品として金堂壁画(白鳳時代)がある。これは金堂外陣をめぐる柱間(はしらま)の大小12面の壁に描かれたもので、大壁にはそれぞれ釈迦、阿弥陀、薬師、弥勒の四仏浄土図を、小壁には8体の菩薩像をあらわしていた。西域風の暈(くま)取りがほどこされ、熟達した鉄線描で描かれた諸尊の像容は、初唐絵画の影響を濃厚につたえるものだった。残念ながらこれらの壁画は1949年(昭和24)の火災でうしなわれたが、飛天図を描いた小壁は罹災(りさい)をまぬがれている。なお、この金堂壁画焼失事件をきっかけに翌50年に文化財保護法が制定された。仏画ではほかにも、星曼荼羅図(ほしまんだらず)、法華曼荼羅図(いずれも平安時代)、孔雀明王図(くじゃくみょうおうず:鎌倉時代)などの密教画も伝来する。

そのほか工芸では、ササン朝ペルシャ風の意匠をもつ四騎獅子狩文錦(しきししがりもんにしき:唐時代)や百万陀羅尼塔(だらにとう)、多数の伎楽面(ぎがくめん)、舞楽面、法具類(いずれも奈良時代)がある。

IV. 法隆寺献納宝物

法隆寺は1878年(明治11)に寺宝の一部を宮内省に献納したが、第2次世界大戦後は国有となり、現在は東京国立博物館が300余点を保管陳列している。飛鳥・白鳳時代の「四十八体仏」などの仏像、東院絵殿旧蔵の「聖徳太子絵伝」などの絵画、「法隆寺献物帳」などの書跡のほか、仏具、伎楽面、楽器、武器、服飾など多岐にわたる遺品は、正倉院宝物とならんできわめて貴重である。

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