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| II. | 再建非再建論争 |
「日本書紀」には670年(天智9)に斑鳩寺が焼失したとしるされている一方、「法隆寺資材帳」(747)では火災のことがまったくふれられていない。こうしたことから、西院伽藍が推古天皇の時代に創建されたものか、あるいは再建されたものかという論争が明治中期におこり、建築様式論などをふまえた再建非再建論争が約半世紀にわたってくりひろげられた。再建説は喜田貞吉、非再建説は関野貞が中心になり、考古学、歴史、美術史、建築史の学者たちをまきこんでの論争だったが、1939年(昭和14)、石田茂作によって西院伽藍東南方の若草伽藍跡が発掘調査されてから、670年(天智9)に若草伽藍が焼失し、西院伽藍はそれ以降に再建されたとする再建説が定説化した。
2001年(平成13)には奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)が、五重塔の心柱(しんばしら)を年輪年代学の測定法(→年代測定法の「年輪年代法」)によって科学的に調査し、心柱のヒノキ材は594年(推古2)ころに伐採されたものとの結果をえた。これは607年ころといわれる創建年代よりもさらに古いもので、再建説を支持するものとはならなかった。しかし、同研究所ではその後、昭和大修理などでとりかえられた五重塔の垂木板(たるきいた)などの年輪年代測定をすすめ、2003年(平成15)7月に現在の五重塔が663年(天智2)以降に建設された可能性が高いと発表。さらに2004年(平成16)7月にも金堂、五重塔、中門のヒノキやスギの部材を測定し、金堂の部材が668~669年(天智7~8)、五重塔のものが673年(天武2)、中門のものが685年ころに伐採されたと発表、670年(天智9)の火災以後に再建されたとする再建説が決定的なものとなった。