| 邪馬台国 | 項目ビュー | ||||
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| II. | 邪馬台国論争 |
邪馬台国の場所はほぼ全国にあてはめる説があるが、有力なのは北九州と畿内である。「魏志倭人伝」は邪馬台国までの距離・方角をしめすが、ここにある記載の不備が論争のもとになっている。北九州説は筑後国山門郡(やまとぐん:福岡県みやま市一帯)とする説が有力で、この説では邪馬台国までの方角はただしく、距離記載は外交の要衝にあたる伊都国から放射状によみとるとする。環境的にも、北九州は弥生文化の流入口で、当時もっとも先進的で高度な文化があった。
対する畿内説では奈良県の三輪山山麓(さんろく)あたりが有力視され、距離記載をただしいとし、方角をずらして畿内にあてはめる。「魏志倭人伝」にある卑弥呼の墓が、大和ではじめてできる古墳であるらしいこと、つぎの4世紀半ばの大和政権の成立がスムーズに説明できること、魏鏡とされる三角縁神獣鏡が京都府の椿井大塚山古墳や奈良県黒塚古墳から大量にみつかっており、畿内から全国にわけられていったと考えられることなどが根拠となっている。
しかし、最近では中国の出土例や銘文、材質の科学的分析などがすすみ、卑弥呼が魏から手にいれた銅鏡は別のもので三角縁神獣鏡は日本でつくられたという説も有力となりつつある。この場所がどこかによって邪馬台国の国家的な力量の評価が大きくことなるため、論争のゆくえはきわめて重要である。