| 検索ビュー | 米 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
イネ(稲)からとれる米は、コムギ(小麦)、トウモロコシとならぶ、世界の三大穀物のひとつであり、なかでも米を主食としている人々は世界でもっとも多い。それは、米を食べれば、食物として摂取しなければならない必須アミノ酸をすべてとることができるからである。パンでは必須アミノ酸をすべてとることができず、チーズなどでおぎなう必要がある。日本でも、かつては米を大量に食べることで、栄養を確保していた。
稲の籾殻(もみがら)をはずしたものを玄米といい、それをさらに精米して糠や胚芽(はいが)をとりのぞいたものが白米(または精米、精白米)、胚芽をのこしたものは胚芽米とよばれる。栄養価は、玄米、胚芽米、白米の順で高い。米の種類としてはインディカとジャポニカがあるが、1つの地域では、そのどちらかが生産されており、調理の仕方も種類によってことなっている。また、炊(た)いて食べる粳米と、蒸(む)して餅などにして食べるもち米とがある。さらに米は、菓子、酒(→ 日本酒:焼酎)、みりん、味噌、醤油などの原料としてもつかわれている。
| II. | 世界の米の生産と輸出入 |
米を生産している地域は、日本をふくむ東アジア、東南アジア、インド、西アジア、それにアメリカ、イタリア、エジプトなどだが、オーストラリアやアフリカでも生産されている。もっとも生産量が多い国は中国である。栽培する面積はインドがもっとも広いが、単位面積当たりの収量が低く、生産量としては第2位にとどまっている。米の約9割はアジアで生産されている。
コムギやトウモロコシが輸出用に増産されるのに対して、米はほとんどが自国で消費するために生産されており、生産量に対する輸出割合は小さい。そこには、米が時間の経過とともに、急速に味がおちていき、新米にくらべて古米、古古米の価格がはるかに低いことが影響している。つまり、米の場合には、長期にわたって在庫をかかえ、価格の変化に応じて販売量をかえていくことがむずかしいのである。貿易量が少ないために、米の国際価格の変動ははげしい。
米の最大の輸出国はタイで、インドやベトナム、アメリカなども多い。タイの輸出量が多いのは、19世紀に、イギリスの資本によって、インドやセイロン(現スリランカ)向けの米を生産するために、稲作地帯が開拓されたことが影響している。米の輸入量が多いのはフィリピンなど、おもにアジアやアフリカの途上国である。
| III. | 水田の利点 |
米となる稲は、畑でもつくられ、それは陸稲とよばれる。しかし、米の大半は水田で生産されている。それは、同じ場所での水田の平均収量は畑の倍にもなるからである。水田では、水をいれることによって、微生物の働きが活発になり、土のpHが一時的にあがって、リン酸化合物の溶解度が高まり、また、灌漑水(かんがいすい)からのカリウムの供給量がふえ、稲への養分の供給がよくなる。また、水田は畑よりも除草が簡単で、しかも連作障害(→ 連作)がおこらず、同じ水田で稲をつくりつづけても、畑とはことなり、収量がおちない。耕地がそれほど広くはない日本をはじめとするアジアの諸国で、米が主食としてこのまれてきたのも、水田が連作可能だからである。
| IV. | 水のコントロール |
水田で米をつくるためには、水がいる。そのため、水のコントロールが必要かどうかによって、社会のあり方が規定されている面がある。たとえば、タイで稲作がおこなわれるのは、一部の地域をのぞいて雨季においてである。雨季がはじまり、強い雨が2、3度襲来した後に、田の簡単な鋤(すき)おこしがはじまり、種が直接田にまかれる。その後、草取りもおこなわれないが、理由は8月になると田に1mほど水がたまり雑草がすべて溺死(できし)してしまうからである。稲は水面に顔を出しており、12月になって水がなくなると、たおれた稲の穂を鎌(かま)で刈っていく。こういったかたちで米づくりがおこなわれている所では、田植えや収穫の際に共同で作業にあたる必要がなく、村の共同体のつながりは緩やかである。
| V. | 米づくりと共同体の構造 |
インドネシアでは、収穫のときに、田の所有者以外の人間が入ってきて、収穫作業に参加し、自分の刈りとった量の10分の1をもらっていくバオンとよばれるシステムがある。これは、冷害のない気候温暖な社会であるがゆえに可能な、分配によって、できるだけ多くの人間に収穫の分け前をあたえようとするシステムである。
これに対して、日本や韓国などの場合には、田植えの際に、日本では結(ゆ)い、韓国ではプマシとよばれる共同での労働が不可欠であり、村の共同体のつながりは緊密なものとなる。人類学者のジョン・エンブリーは、そういった点から、タイを緩やかな構造の社会とよび、日本をきっちりとした構造の社会とよんだ。→村の「村落共同体の一般的特性」
| VI. | 地位の象徴 |
近代化がすすんでいない東南アジアの社会においては、長く特権階級と無権利の大衆とに二分され、中間層が存在しなかった。そういった社会においては、水田を所有することが、地位を上昇させていくためには不可欠な条件となっていた。そのため、自分の田でとれた米を食べられることが、エリートの証(あかし)と考えられてきた。タイにはサクディナー制があるが、サクディとは位、ナーとは田を意味し、王からあたえられる田の広さによって身分が決定されるシステムがとられてきた。
日本でも、米は年貢となり、また石高制がしかれたように、貨幣にかわる交換媒体の役割をもはたしてきた。現在でも、インドでは、床屋の代金が籾によってしはらわれたりするし、タイでは、壺(つぼ)がその容量分の籾と交換されたりしている。
| VII. | 日本人と米 |
日本に水田による稲作がつたわったのは、紀元前400年以前と考えられている。つたわったルートについては複数の説があり、いくつかのルートをとおってつたわった可能性もある。日本は、稲作については後進国だが、記紀神話(→ 日本神話)で日本は「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国」とよばれ、葦の生いしげる湿原のように、とこしえに稲穂が豊かにみのる国が理想とされてきた。
| 1. | 記紀神話 |
記紀神話では、高天原には水田があり、アマテラスオオミカミ(天照大神)みずからが水田をいとなんでいた。その水田を破壊したのが弟のスサノオノミコト(素戔嗚尊)で、スサノオノミコトは出雲国で、稲の擬人化されたクシナダヒメ(奇稲田姫)をすくう。また、オオクニヌシノカミ(大国主神)も、葦原中国の王となるが、その一族には稲作に関係の深い神々が多い。そして、そこに降臨する神々にはいずれも、稲穂を意味する神名がつけられていた。古代の王は、神聖な稲を管理する存在であったが、それはアマテラスオオミカミの子孫であるとされる天皇にうけつがれていく。
| 2. | 稲作儀礼 |
天皇は、毎年、新しくとれた米を、アマテラスオオミカミにささげ、共食する新嘗祭を宮中でおこなうが、天皇の即位儀礼である大嘗祭では、稲の霊がいったん死んで再生されるように、天皇の霊もなくなった先代の天皇から新しい天皇にうつり、再生をはたすことになる。このように、天皇と稲との結び付きは密接であり、それが日本において米が神聖視されるひとつの原因ともなっている。また、民間においても、宮中と同じようなかたちで、各種の稲作儀礼が盛んにおこなわれてきた。日本の民間信仰は、稲作を核として形成されている。柳田国男は、祖霊は、冬の間は山の神として、子孫の生活を守護し、春には田の神となって、農作業の無事を守護するのだと解釈した。
| VIII. | 米の経済史 |
日本人は、豊葦原の瑞穂の国の建設をめざして、米の増産にはげんできた。大宝律令(701年)による班田収授法も、国家が水田をかしあたえ、そこからあがる収入の3%を税としておさめさせることによって、国家の経済基盤をかため、税を低くおさえることによって、増産を奨励する試みだった。しかし、水田の私有がみとめられなかったため、この制度は崩壊し、やがては貴族や寺社、そして武士によって水田は私有されるようになった。水田をいかに多く所有するかが、権力への近道であり、巨大な荘園を経営する勢力が、政治権力をにぎった。室町時代には米の生産力が上昇し、品種も多様化、それが室町幕府や徳川幕府といった長期政権をささえた。江戸時代には、所領は米の生産高で表示され(石高制)、米遣いの経済とよばれるほど米が重要商品となった。そして各藩によって、盛んに新田開発がおこなわれた。
しかし農民にとって、米は年貢としておさめるか、町場への販売物であったために、農民が自分たちで米を食べることができるようになったのは、江戸後期になってからである。それまで農民は、アワやヒエなどの雑穀を主食としていた。一方で幕臣や藩の領主、さらにはその家臣だけではなく、江戸や大坂といった都市部の町民は、江戸時代の初めから米を食べていた。
当時の米穀流通については、海上輸送の発達、貨幣経済の浸透にともない、全国諸藩の年貢米が大坂、江戸など大都市へ海路ではこびこまれ、蔵屋敷におさめられた。そしてこれら年貢米を換金する市場として、大坂堂島に大規模な米市場が成立、米の商品化が一気にすすんだ。
明治期に入ると、人口の増加や都市化の進展によって、米の需要が高まり、米は常に不足していた。そのため、インドやインドネシア、タイから輸入されたいわゆる南京米によって増加する工場労働者の食料の需要をまかなっていた。しかし、米の供給がじゅうぶんでなかったために、ちょっとしたきっかけがあれば米価は急騰し、1918年(大正7年)には、それが米騒動に発展した。
その後、朝鮮や台湾といった当時の植民地から、米の移入がおこなわれたが、やがてそういった地域でも米の消費がふえ、移入量がへった。そこで政府は、1942年(昭和17年)に食糧管理制度を発足させ、米や麦などについては配給制をしいた。しかし、敗戦とともに、配給だけでは米がじゅうぶんに確保できなかったため、人々は高いヤミ米を買わざるをえなかった。
| IX. | 国による管理から民間主導へ |
国による米の全量管理を基本とする食糧管理法では、米の生産者にはそれをすべて政府に売りわたす義務がさだめられていた。農民には、販売の自由がなかったわけだが、すべてを買いあげてもらえる保証があったため、農民は米の増産にはげんだ。そして、米の売り渡し価格が政府によって決定されるため、米価は政治問題となり、農民は圧力団体として政府、自民党に影響力をもった。
米の消費量は1962年をピークとして、その後は減少に転じたが、生産性の向上などによって米余りの状態となった。70年代に入ると減反政策がおこなわれ、また、69年には自主流通米の制度が創設されて、政府を介さない米の流通がはじまり、高価でもおいしい銘柄米が注目されるなど、自主流通米の割合がふえていった。
1993年(平成5年)には、記録的な不作による米不足のため、政府は米の緊急輸入にふみきった。またこの年、WTO(世界貿易機関)の前身であるGATT(関税貿易一般協定)のウルグアイ・ラウンド農業合意によって、日本は米について最低輸入機会(ミニマム・アクセス:MA)をうけいれることになった。この2つの出来事を直接的な契機として95年に食糧管理法は廃止され、かわって主要食糧法(主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律)が制定された。主要食糧法では、国の役割は備蓄運営に限定され、2004年の改正で計画流通制度が廃止された。需給調整についても、農業者が主体的におこなうシステムに移行した。
米は日本人の主食であるとはいえ、生活の豊かさが実現されるとともに、食生活における米の比重はかなり低下している。しかし、1993年の米不足の際の混乱がしめすように、米が日本人にとって欠かすことのできない穀物であることは否定できない。また、米不足のために緊急に輸入されたタイ米が、結局はあまったように、日本でつくられた米に対する嗜好性(しこうせい)がかなり強い。ミニマム・アクセス米のおもな用途は、加工用、海外援助用、備蓄用などであり、いくら輸入米の価格が低くても、日本人が主食を輸入米に依存するようになるとは考えられない状況にある。