亡命
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亡命
V. ファシズムと亡命知識人

イタリア、ドイツ、スペインその他でのファシスト政権の成立は、多くの文化人を亡命においやった。スペインのチェロ奏者カザルスはフランスに移住し、のちにプエルトリコにうつった。イタリアの指揮者トスカニーニは、アメリカを活動の場としてえらんだ。ドイツの作家トーマス・マンとその家族は、アメリカに移住した。バウハウスを主宰していた建築家グロピウスやミース・ファン・デル・ローエらはアメリカにうつり、そのうちモホリ・ナギがニュー・バウハウス(シカゴ・インスティテュート・オブ・デザイン)を設立するなど、それぞれがアメリカ各地で造形活動を展開した。

1933年のナチスの政権獲得、38年のオーストリア併合、それにつづく第2次世界大戦の開始とフランス、東ヨーロッパ、ソ連西部へのドイツ軍の占領地拡大は、殺戮(さつりく)をのがれようとしてヨーロッパ各地を転々とするユダヤ人の大量難民を生みだし、脱出に成功した人々はおもにアメリカに移住した。ホロコースト

祖国をおわれアメリカに移住した文化人や知識人は、さまざまな分野でアメリカ文化に大きな影響をあたえた。オーストリアの指揮者ワルターをはじめとする音楽家たちの移住は、アメリカ諸都市の楽団に優秀な演奏家を大量に供給し、今日のアメリカの音楽水準をヨーロッパにならぶものに成長させた。

心理学者の一群も、精神分析学、発達心理学、フェミニズムの分野でアメリカの学界を世界のトップに高めることに寄与した。フロムやアドルノ、ホルクハイマーらフランクフルト社会研究所のスタッフをはじめとする社会学者たちは、ヨーロッパ社会学の知的伝統をアメリカ社会学に受容させ、実地調査の理論化をもたらした(フランクフルト学派)。

原子爆弾の開発をめざすマンハッタン計画(核兵器)には、イタリアのフェルミ、ドイツからイギリスをへてアメリカにうつっていたシラードなど、当代きっての物理学者たちがかかわり、1945年7月、最初の原爆が完成した。ナチス・ドイツの原爆製造に対抗してはじめられたこの計画は、ドイツ壊滅後も中断することなく、同年8月の広島、長崎への原爆投下によって、科学史上の汚点をもたらすことになる。シラードら計画を遂行した科学者たちは広島への投下に反対したが、もはや軍部と大企業の意思をくいとめることはできなかった。

ハンガリーの数学者ノイマンは、ナチス政権成立前からアメリカの大学で教授職をえていたが、結局アメリカで生涯をおえた。彼はオーストリアから移住した経済学者オスカール・モルゲンシュテルンとともに、ゲーム理論を発展させた。ノイマンはマンハッタン計画にも参加し、彼が提唱した計算機の改善の原理は、その後のコンピューターの発展に寄与するところが大きい。

オーストリアからアメリカに移住した経済学者たちは、限界効用学説、計量経済学の分野にめざましい貢献をなした。ロシア生まれのオーストリアの経済学者アレクサンダー・ガーシェンクロンは、独自の近代化理論を展開した(工業化)。ドイツの政治学者アレントは、フランスをへてアメリカにわたり、全体主義国家としてのナチス・ドイツとスターリン体制下のソ連を分析した。

亡命知識人の大量移住は、アメリカの科学と芸術を大きく発展させたが、分野によってはうけいれられなかったものもある。文学者にとっては言語上の壁が存在した。19世紀の亡命者たちは亡命地で作品(亡命文学)を完成させたが、それはあくまでも母国文化としてであった。対照的に20世紀の亡命者たちは、定住国の文化や言語にとけこみ、定住国の言語で業績を発表し、定住国の文化を発展させる一翼をになった。しかし知識人の一部をのぞいて、ほとんどの亡命者が、くるしい生活を強いられた。

ドイツによる占領の結果、従来の政権が外国に亡命し、その地に政権を維持して国際的な承認をえた事例も多い。ロンドンには、フランス(ド・ゴール)、ノルウェー、オランダ、ポーランドなどの政権が存在した。これらの亡命政権は、ファシズム国家の崩壊後、アメリカ軍やイギリス軍の援助で自国にかえり政権担当の地位についた。