| 検索ビュー | 寺院建築 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
寺院という言葉は、広い意味では仏教、イスラム教、キリスト教など、日本固有の神社以外のすべての宗教施設を意味するが、この項目では、仏教寺院について解説する。
| II. | インド |
仏教建築は仏教の発祥地であるインドで成立した。本来、僧は定住せずに修行をおこなっていたが、雨季である夏には仮の宿所をもうけて共同生活をおくった。これを安居(あんご)、雨(う)安居、夏(げ)安居などというが、そのための施設がサンガーラーマsamghārāma(衆園:しゅおん)である。この音訳が僧伽藍摩であり、のちの寺院建築総体をさす伽藍の語源となった。その後、仮の宿所が常設化して僧院(ビハーラ)が誕生した。
また初期の仏教建築の代表的なものに仏塔(ストゥーパ)がある。釈迦の死後、その遺骨(仏舎利:ぶっしゃり)をまつるために建てられたもので、初期には在俗の人々によってつくられたが、のちに僧院とくみあわされて寺院建築を代表する建物のひとつとなった。仏塔は土、煉瓦、石などを材料とし、鉢をふせた形につくられた。仏像が成立したのち、それを安置する仏堂もつくりだされたが、インドでは伽藍内で主たる位置を占めることはなかった。→神殿の「インド」
| III. | 東南アジア |
仏教は前3世紀ごろにスリランカへつたわったが、仏塔はインドでの初期の形式をよく保持した。東南アジアの仏教はスリランカからつたわったが、とくに仏塔の形式は大きな影響をあたえた。ミャンマーにおける11~13世紀のパガン朝、タイにおける13~15世紀のスコータイ朝に多くの仏塔群が建設された。いずれもインドでの形式を少し発展させ、大規模になったものである。またインドネシアには8~15世紀の石造の仏教建築がみられ、曼荼羅を立体化したボロブドゥールはその代表である。
| IV. | 中国 |
中国では、漢代に仏教が伝来した。寺院建築の確認される最古の例は徐州にたてられた浮屠祠(ふとし)で、内部に金色の仏像を安置し、九重の銅槃(どうばん)をたらした楼閣建築であった。のちの仏殿と仏塔の性格の双方をあわせもつものであった。
南北朝時代(→ 魏晋南北朝)には仏教が広く受容され、南朝の建康(現在の南京)や北魏の洛陽には500~1000の寺院がもうけられていたという。洛陽を代表する大寺院の永寧寺(えいねいじ)には中央部南に九重塔、北に仏殿があり、その周囲を多数の僧房や楼観がとりかこんでいた。隋、唐の時代になると、仏塔と仏殿の位置関係が逆転したと思われる。また双塔形式の伽藍も登場したようである。中国の寺院建築は主として木造であったと思われるが、石造仏塔も多く、また石崖に多くの石窟寺院もつくられた。
| V. | 朝鮮 |
朝鮮半島には4世紀末に仏教が伝来した。6世紀に国教となったのちには多くの寺院が建設された。初期のものに高句麗の平壌清岩里廃寺(せいがんりはいじ)があり、中央に八角形の仏塔、北、東、西の三面に金堂(こんどう)を配置する。また百済では扶余の定林寺などが知られ、南から北に仏塔、仏殿、講堂をならべ、回廊でとりかこむ。統一新羅(→ 新羅)では慶州の皇竜寺などの大規模な伽藍がもうけられた。また慶州北方の感恩寺では回廊内部の南側に2つの仏塔をもつ形式が誕生している。仏殿は木造であったが、仏塔は石造のものも少なくない。
| VI. | 日本 |
| 1. | 初期の寺院建築 |
日本には6世紀前半に仏教がつたえられたが、本格的な寺院建築は6世紀末から7世紀初頭にかけて建設された飛鳥寺が最初である。造営にあたっては、百済から僧、寺工、瓦博士、露盤博士(塔頂部の相輪やその台をつくる工人)、画工などが派遣されており、朝鮮半島からの強い影響関係がうかがわれる。伽藍は塔を中心に北、東、西に3棟の金堂がその周囲に配置され、全体を回廊がとりかこんでいた。講堂は回廊の外の北側にあった。その後、四天王寺、法隆寺などがひきつづいて創建されたが、飛鳥寺や四天王寺の伽藍をみるかぎり、初期の形式は朝鮮半島からもたらされたと考えられる。「日本書紀」によれば624年には46の寺院があったというから、急速に仏教寺院が普及していったことがわかる。
7世紀半ばから遣唐使がしばしば中国に派遣されるようになり、中国からの建築様式や技術が直接つたわるようになった。明日香村の川原寺はその初例と考えられている。7世紀末に完成した藤原京には薬師寺、大官大寺といった大規模な寺院が建設された。薬師寺には各層に裳階(もこし)を付した個性豊かなデザインの金堂、三重塔があり、双塔形式をもつ初例である。大官大寺は巨大な寺院で九重の高い塔がたてられた。
| 2. | 奈良時代、平安時代 |
710年に都が平城京にうつると、各寺院も新都にうつった。薬師寺、興福寺、元興寺(もとの飛鳥寺)、大安寺(もとの大官大寺)が建設され、8世紀後半には東大寺、西大寺といった巨大寺院をはじめ、唐招提寺、法華寺(ほっけじ)など多くの中小の寺院がもうけられた。寺院内部の建築には、中心部に本尊をおさめる金堂、仏舎利をおさめる塔、それらをかこむ中門と回廊、経典をおさめる経蔵、時刻を知らせる梵鐘(ぼんしょう)をつる鐘楼(しょうろう)、僧侶の勉学の場である講堂、会食のための食堂(じきどう)、居住の場である僧房などがあり、その外側に大衆(だいしゅ)院、修理(しゅり)院、温室院、倉垣(そうがい)院、花園(かおん)院、賤(せん)院などが配置されていた。
平安時代にはいると、仏教抑制政策のために、平安京には東寺と西寺の2寺しか建設されなかったが、京外には順次大小さまざまな寺院が建設された。初期には比叡山に天台宗の巨大寺院延暦寺が、京の外側に真言宗の仁和寺、貞観寺(じょうがんじ)、醍醐寺などがもうけられた。また畿内を中心に多くの小寺院も建設された。これらの寺院の多くは、本尊を安置する中心仏堂(金堂・本堂)の前方に礼堂を付設するようになった。礼堂付きの仏堂は平安時代を通じて発展し、やがてほぼ正方形の平面で、内部が本尊を安置する内陣、多くの俗人が礼拝をおこなう外陣(礼堂)の2つの部分からなる仏堂へと変化をとげた。
| 3. | 中世以降 |
この平面形式は中世(→中世の「日本の中世」)になると全国各地に普及し、天台宗、真言宗の宗派の別にかかわらず、中世寺院の本堂の大部分はこの形式をもつようになった。中世初頭には中国から新しい寺院建築の技術が輸入された。ひとつは大仏様(天竺様ともいう)で、鎌倉初期の東大寺大仏殿再建にもちいられたもの、もうひとつは禅宗様(唐様ともいう)で、中国からもたらされた新しい仏教である禅宗、とくに臨済宗にともなってはいってきたものである。
大仏様は東大寺再建ののちは衰退したが、大建築を頑丈につくることができるため、のちの時代にもときどき登場する。禅宗は武士、貴族の帰依(きえ)をうけたので、京都や鎌倉に大規模な禅宗様の寺院をつくりあげた。したがってその建築様式が当時の主流の様式のひとつとなり、また全国各地に禅宗寺院が多くつくられるとともに国内に普及していった。禅宗様は、伝統様式である和様とともに日本の伝統様式となっていった。
禅宗寺院の伽藍は、中国禅宗の寺院にならったもので、京都、鎌倉の五山などの大規模な寺院は、仏殿(かつての金堂に相当)、法堂(はっとう:講堂に相当)、三門(中門)、回廊、庫院(くいん:厨房と寺務所)、僧堂(坐禅、食事、睡眠の場)、衆寮(しゅりょう)、方丈などの建築群で構成されていた。また、周囲には住職の墓をまもる子院塔頭(たっちゅう)がつくられ、徐々にその数が増加していった。
鎌倉時代に開宗された浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、時宗などの新仏教各派は当初は有力な檀越(だんおつ:布施をする信者など)をもたず、立派な寺院建築をつくることができなかったが、室町時代後半から京都や地方の都市にそれぞれの宗派ごとに個性的な建築をつくりだした。内部に外陣、内陣という2部分をつくる本堂をもつことが多く、これは真言宗や天台宗の寺院建築の影響とみられるが、全体に住宅的な要素を多くもつ。
江戸時代にはいると新仏教は檀家制度(寺檀制度)にくみこまれ、大量の寺院が新たに建設された。とくに最大の信者をかかえた浄土真宗は、各地の本山や別院に巨大な本堂、御影堂(みえいどう:宗派の開祖の像を安置する建物)をつくった。近代にはいっても伝統的な建築様式はまもられ、新築、再建などの際には木造で伝統的様式をもちいた寺院建築がつくられることが多い。また一部では、鉄筋コンクリート造のものも登場するようになった。
→ 寺院遺跡:神殿