検索ビュー 都市問題

この項目内で、特定の言葉で検索するには、[編集] メニューの [このページの検索] をクリックします。

入力した言葉とまったく同じ言葉で検索されます。見つからない場合は、別の言葉で検索してみてください。

都市問題
I. プロローグ

都市という空間にすむ住民の生活をさまたげたり、支障をあたえたりするさまざまな問題。ここでいう生活とは消費生活だけではなく、生産生活もふくむ。現代日本の都市に即して具体的に問題をあげると、ゴミ問題、通勤地獄、交通事故や交通渋滞、高地価、物価高などがあり、たとえば阪神・淡路大震災のような大災害、サリン事件(オウム真理教)などの凶悪犯罪による大被害、排気ガスなどによる劣悪な環境、さらに大都市に頻発する通り魔などの犯罪や、ホームレスなどもあげることができる。

II. 都市問題の歴史

都市問題は、都市ができて以来あった。たとえば、古代ローマでは道路をいきかう馬車や馬が急増したために、昼間の通行を禁止して夜間通行とした。すると今度は、夜間の騒音で市民が睡眠不足になり苦情が殺到したという。都市の発生と都市と農村の関係に関する論争は活発で、今後考古学的な発見によりますます盛んになると思われる。

これまで都市問題というと、近代都市を中心にとりあげることが多く、産業革命により登場した近代工業都市がかつてない問題を生みだしたことも事実である。したがって、都市問題は当時の労働者問題、たとえば劣悪な労働条件、不衛生な職場、生活環境、そしてそこから生ずる家庭崩壊、アルコール依存症などの個人の崩壊などが問題にされた。

しかし、都市問題は都市という空間に生じた問題であり、全面的に階級問題に還元できないことは今では明らかである。従来、マルクス主義(共産主義)を中心とする社会主義理論では、都市問題は階級問題であるとの認識が一般的であったが、こうした「還元論」がもはや無効であることは、現在ではだれの目にも明らかである。都市と農村の違いの本質についてはさまざまな理論があるが、重要な点は都市は農村にくらべて一般に人口が稠密(ちゅうみつ)であることである。ほかのさまざまな相違よりも、まずこの違いを原点におかなくてはならない。

III. 世界の都市問題

世界的にみて現在の都市問題は、先進諸国よりも開発途上国でより深刻である。ここ数十年にわたって開発途上国での人口爆発、都市爆発が指摘されている。第2次、第3次産業が未発達でありながら、第1次産業の分野で合理化が進行したことによって、農村から都市に流入した人々がスラムを形成せざるをえなかった。このようなスラムは日本における山谷や釜ヶ崎(愛隣地区)のように、市街地の一角を占めるスラム街とはことなる。たとえば、ペルーのリマ・カヤオの周辺には、スラム町が数カ所あり、そのおのおのが数万の人口を擁する独立した町で、官憲も簡単にはいりにくい、いわば一種の治外法権地域となっている。こうしたスラム町が貧困、伝染病、犯罪、テロリズムなどの温床になっている。スラム町以外にもインドの路上生活者のように、路上に生まれおち路上で一生をおわる人々が何十万人をかぞえる現実もある。

また、同じ開発途上国とはいっても経済発展が加速している国々では、都市が急激に拡大膨張する例が多くみられる。今や中進国の地位を占める韓国のソウルのように、全人口の4分の1を占める大都市の人口稠密の圧力は想像を絶する。交通問題ひとつとっても、もはや道路は巨大な駐車場といわれるほどである。バンコクや中国の経済成長がいちじるしい沿岸部諸都市にも同じようなことがいえる。12億人の人口をかかえる中国が事実上移動の自由をみとめてからは、これらの先進大都市への移動は激しさをますばかりである。グローバルにみるならば、開発途上国の都市爆発、なかんずく経済発展のいちじるしいアジア、とりわけ東アジアにおける大都市の爆発こそ最大の問題といわなければならない。

IV. モータリゼーションと都市

欧米のみならず日本、そしていまや開発途上国においても、都市がかかえる最大の問題のひとつが交通問題である。とくにモータリゼーションは都市に深刻な問題をなげかけているが、もはや都市は道路や駐車場など車のための円形劇場と化している観がある。自動車による交通事故の犠牲は、世界で毎年25万人の死者をかぞえ、その数十倍の負傷者をだしており、日本だけでも第2次世界大戦から今日まで約60万人の死者がでている。これほど死が日常的で身近な存在となっても、人は車にのることをやめない。車のために膨大な面積をつかって道路と駐車場にさく都市は、人々が自由にふれあい、コミュニケーションができるチャンスを放棄しているといってもいい。

大都市が車を制限することは、きわめて困難である。一つには、都市が車による人と物の流れのネットワークの拠点になっているからであり、これを制限することは血液の流れを阻止するようなものだからである。かつての都市と農村という単純な2分法は、もはや通用しなくなっている。都市に生まれた自動車は農村のすみずみまではいりこみ、ネットワークにくりこんでいる。

V. エコロジーと都市

都市に生まれた工業は、自然のリサイクルを拒否する廃棄物を生みだした。空気中あるいは土壌の中で腐敗することにより、リサイクルする廃棄物とはことなる機械製品、化学製品を生みだした。生活廃棄物とはことなる産業廃棄物は容易に処理可能ではなく、とりわけ塩素をふくむプラスチック類などの人工有機化合物などの焼却では猛毒のダイオキシン等の有毒ガスを発生させる恐れがある。あるいは、自動車や工場からでる排気ガス、煤煙、汚水が人体のみならず動植物にも影響をあたえていることは、周知のとおりである。これ以外にも人口の密集からくる家庭排水が、いかに地下水を汚染しているかはよく知られている。

都市からでるゴミは、もはやその都市自身では処理できず、ほかの農村地域に処理をたのみ、その地域を汚染する危険をまねいている。

VI. 犯罪と都市

人間が多くあつまるところでは、必然的にさまざまな需要と供給のシステムが発生する。たんに商品の需給だけでなく、サービスや欲望の需給も発生する。そこには合法、非合法の商売もでてくるし、そうした商売に従事するウラ社会の犯罪集団が登場する。彼らの間、あるいは通常の市民をまきこんだ暴力、殺人などさまざまな犯罪が発生している。

VII. 都市の魅力

都市の弊害は、これ以外にも数多く列挙できるだろう。しかし、それにもかかわらず、都市は人々をひきつける。たとえば、かつて日本の知識青年の多くは農村出身だった。彼らは青少年時代に故郷を出奔して、都市とりわけ東京などの大都市で自由な生活をおくった。小説家志望の青年もほとんどがこうしたコースをたどり、小説家として一人前になると故郷のことをよき思い出として書いたものである。たとえば、太宰治「津軽」などがあげられる。大都市がもつ匿名性は、あくなきノベリティへの願望を満足させてくれた。さらには明治維新以来、大都市には立身出世のチャンスが存在したのである。青年たちに「憧れ」の気持ちがあるかぎり都市の魅力はたえないだろう。たとえ、都市が闇と悪が支配し、魑魅魍魎(ちみもうりょう)がうごめく地帯であったとしても人々はおもむくであろう。

VIII. 都市問題の解決

近~現代の巨大都市の弊害を論難する非マルクス主義者の人々の多くが奇妙なことにマルクス主義の影響をのこしている。彼らはひたすら、人間は容れ物によって良くも悪くもなると信じているようである。階級への還元論を拒否する彼らが、今度は都市空間への還元をみとめるのはいかがなものか。たとえば、ル・コルビュジエの都市計画を非難する人々は多い。人工的に設計された都市空間では、人々はあたかも原子化され、砂粒のような存在であり、なんらコミュニケーションもとれないような存在になりはてているというのである。しかし、これと対称的なところには、たしかに雑踏の中でわらったりないたり、かたりあったりする人間関係を保持している人々がいる。だから、こうした主張は、彼らにとっては逆説的に人間の主体性を放棄したものにほかならず、人間が容れ物によって簡単にかわるというマルクス主義と同じ平面にたつことになる。人間が容れ物によって簡単にはかわらないということは、旧ソ連圏の崩壊によって証明済みである。人間は良くも悪くも、柔軟で、もっと分厚い存在である。

現代の大都市にはさまざまな弊害があるが、上記のような魅力もある。都市問題は少しずつ解決の方向にもってゆかざるをえないし、またそうすべきである。交通問題ひとつをとってみても、日本はドイツの例などにならい、できるだけ事故をふせぐようなシステムを考えるべきである。自転車は一定の地域では役にたつかもしれないが、自動車にとってかわる物ではない。正月や連休になるときまって高速道路に出現する長蛇の車の列は、時間を犠牲にしても、また事故の危険性を意識しても、私的空間の移動を重視する人の存在を証明しているし、それにとやかくはいえない。人は自分は事故にあわないと思ってあうのである。身近な人が事故をおこしても、車にのることをやめる人は少ない。

ゴミ問題にしてもダイオキシンの放出を阻止する技術は、着実に開発されつつある。また、廃車となった自動車のリサイクルもドイツの場合は90%近くになっており、日本にできないことはないだろう。最大の問題は日本、とくに東京の場合はスケールのデメリットからくる災害、凶悪犯罪、または有事の際の幾何級数的な被害であろう。阪神・淡路大震災時の例にみられるように少なくとも勃発(ぼっぱつ)時には政府も、地方自治体もきわめて限定的な救助活動しかできないのが現状である。

最後に都市問題を論じる際に気をつけなければならない点は、上述のようにもはや葬りさられたと思われているイデオロギー的な思考を土台にしていることが多いことである。しかもその際に人間は容れ物でいかようにもなる可塑性にみちた存在と考えがちである。このような人間学の不在のなかで都市問題を論じても、それは、皮相的な都市改革におわるだろう。