茶室
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茶室
II. 茶室の変遷
1. 殿中の茶

室町時代に足利将軍邸の会所などでおこなわれた茶の湯は殿中の茶といい、主人が客をむかえる会所の裏側に「茶湯の間」とよばれる茶を点(た)てるための部屋がもうけられ、そこには茶の湯の道具をならべる「茶湯棚」がおかれた。同朋衆が茶湯棚の飾り付けや点茶にたずさわり、茶湯の間で点てられた茶は座敷飾りがほどこされた客座敷にはこばれた。茶湯の間は客をまねきいれる部屋ではなくたんなる「茶立所(ちゃたてどころ)」で、それが客座敷と完全にわかれていたところに殿中の茶の特色がある。武家の作法として会所の座敷飾りが厳密にさだめられ、客が入ることはなかったが茶立所の茶湯棚の飾りもさだめられていた。

2. 草庵の茶

殿中の茶に対して、村田珠光たちが新たに創始した草庵(そうあん)の茶は、客座と点茶の座を一室に結合して、客と亭主が一座を共にするための座敷の茶であった。草庵の茶は殿中の茶を簡略化したもので、茶湯棚を簡略化した台子(だいす)をもちいた。さらに炉を畳に切ることによって草庵の茶は完成された。茶室もまた同じように草庵の茶にふさわしい建築様式としてととのえられていった。ポルトガルの宣教師のしるすところによると、茶室と露地の風情(ふぜい)は「市中の山居」と表現され、市中にあってあたかも山住まいを思わせるたたずまいであったことがわかる。それは中世の草庵の伝統をひくもので、山中に草庵をいとなむ遁世者の姿にわび(侘)の理想をみる草庵の茶(わび茶)の美意識といえる。

茶室としての空間的な特性がはっきりあらわれてくるのは武野紹鴎の茶室であり、完成するのは千利休の茶室である。紹鴎の茶室は北向きで、間口一間の床の間がつき、入り口の鴨居(敷居と鴨居)の内法高が書院より低くとりつけられていた。また炉を切ることで主客の同座が建築的に達成されていた。このようにオーソドックスなスタイルをくずし、簡略化することを、書道の楷書(かいしょ)・行書・草書の三体になぞらえて、楷書(真書)から草書化していくという意味で草体化という。

茶室の草体化をさらにおしすすめたのが千利休である。草体化の過程の中で、建築的な造形も、書院造を真とするなら、そこから大きくときはなたれ、くずされたといえる。縁がとりのぞかれて露地と座敷は躙口(にじりぐち)で直結された。躙口は身をかがめてにじって入る狭い入り口で、利休は、茶室を聖なる空間とし、俗世間と聖なる世界とを区切る結界の役割を躙口にもたせたのである。また茶室には刀掛けがしつらえられた。武士はこの刀掛けに刀をおいて茶室に入った。武士も町人も、世俗の身分を超越し、茶室の中では皆平等であるという利休の茶の湯の思想がここに表現されていた。利休はこのようにわび茶の思想を茶室にも表現していったが、その代表的な作品が現在国宝に指定されている二畳敷の茶室・待庵(たいあん)である。ここでは、紹鴎の茶室にのこっていた書院風の名残は一掃され、荒壁仕上げの土壁と丸太や竹という簡素な素材でくみたてられた草庵の茶室が完成された。二畳は茶室としての最小の大きさで、亭主と客の距離はひじょうに接近しているが、利休はこうした狭い空間でこそ主客の心の交わりを中心とした緊張感のある茶の湯が可能であると考えていた。また床の壁は塗りまわしにして隅の柱や床の天井をみせない室床(むろどこ)という手法がもちいられ、天井は3つに仕切って化粧屋根裏をくみいれるなど、二畳の茶室を広い空間に感じさせる工夫もこらしている。また荒壁仕上げの土壁はあたかも農家の納屋のようななつかしさを表現している。

しかし、利休がいとなんだ、日常性をはるかにこえた緊張感にあふれる狭い茶室は、利休没後、そのままでは支持されなかった。たとえば、のちの茶人は狭い茶室は人をくるしめるようだと非難している。利休以後、織田有楽斎、古田織部、小堀遠州らの大名茶人は、茶室にゆとりをもとめ、視覚的な意匠の効果を工夫し、明朗で融通性にとんだ茶室をこのんだ。