| 検索ビュー | 浄土教美術 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
浄土思想のもとに造形された美術またはその総称。大乗仏教はさまざまな仏と菩薩を生みだしたが、同時にそれぞれの仏菩薩がすむ理想郷としての仏国土すなわち浄土がわれわれのすむ世界から遠くはなれた地にあるとされ、浄土への往生がすすめられた。有名な浄土を以下にあげると、阿弥陀—極楽浄土、釈迦—霊鷲山(りょうじゅせん)浄土、阿閦(あしゅく)—妙喜(みょうき)浄土、薬師—瑠璃光(るりこう)浄土、弥勒—兜率天(とそつてん)浄土、観音—補陀落(ふだらく)浄土などがあり、諸々の経典にその情景が説かれている。なかでも浄土といえば極楽をさすほど、阿弥陀如来の仏国土は浄土の代表であり、浄土教美術といえば阿弥陀如来のそれに関するものが大部分を占める。
阿弥陀の浄土を説く経典としては「無量寿経」、「阿弥陀経」、「観無量寿経」の浄土三部経が基本となる。前2者はインドで成立したと考えられるが、後者は中国で撰述された可能性が高い。浄土教はとくに中国と日本に浸透し、数多くの美術作品が現在につたえられる。浄土教美術のうち、浄土の光景を図示したものを浄土変相図もしくは単に浄土変とよぶ。
| II. | 中国 |
中国では4世紀に阿弥陀の造像があったとつたえるが、現存する最古の阿弥陀の造像例は竜門における6世紀初期の像である。浄土教の最盛期は6世紀以降、曇鸞、道綽、善導があらわれてからのことで、それにともなって、洛陽や長安の寺院の堂壁にはさまざまな浄土変が描かれていたことが当時の画論や画史類によって知られる。現存する作品では敦煌の壁画が有名で、隋から宋にかけての各種の浄土変や、唐代以降に流行したものとして阿弥陀浄土変の周囲に観無量寿経の経説を描いた観無量寿経変相図(観経変)などがのこされている。
| III. | 日本 |
| 1. | 飛鳥・白鳳時代 |
日本における浄土教美術の最古の遺品となると、飛鳥時代にさかのぼる「天寿国繍帳」(中宮寺)がある。これは聖徳太子の死をかなしんだ妃(きさき)の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、太子が往生したであろう死後の世界のようすを刺繍した帳で、特定の仏国土に対する信仰をあらわすものではないが、一種の浄土図と考えられる。その他、玉虫厨子背面に描かれた霊鷲山浄土がある。白鳳時代になると橘夫人念持仏(法隆寺)や鎚鍱(ついちょう)阿弥陀五尊像(法隆寺ほか)、法隆寺金堂の壁画に描かれた四仏浄土図など本格的な浄土図が制作される。
| 2. | 奈良時代 |
奈良時代にはいると阿弥陀信仰の高揚にともない阿弥陀浄土図が数多く制作される。東大寺、興福寺、薬師寺、法華寺(ほっけじ)や各地の国分尼寺(→ 国分寺)にあいついで浄土変がつくられたことが文献によって知られる。遺品としては法華堂根本曼荼羅(ボストン美術館)や刺繍釈迦如来説法図(奈良国立博物館)などがあるが、この時代を代表する浄土変が当麻寺にのこる当麻曼荼羅である。これは浄土変の周囲に観無量寿経の経説を描いた観無量寿経変相図とよばれる綴織(つづれおり)の阿弥陀浄土図で、中将姫が蓮(はす)糸で織ったという伝説で名高く、後世、浄土教の隆盛にともなって数多くの転写本が制作された。
その他の阿弥陀浄土変としては、奈良時代に僧智光(ちこう)が感得した智光曼荼羅、平安時代中期に僧清海(せいかい)が感得した清海曼荼羅があり(いずれも原本は存在しない)、これら3種の浄土変を浄土三曼荼羅とよぶが、いずれもしかるべき唐本にならって制作されたものと思われる。
| 3. | 平安時代 |
平安時代にはいると前代にまして阿弥陀信仰が流布する。9世紀に天台僧円仁によって唐より摂取された常行三昧(じょうぎょうざんまい)の行法は、阿弥陀仏の名をとなえながら堂内をまわるもので、比叡山(ひえいざん)延暦寺には3棟の常行堂が建立され、天台宗における浄土教興隆の礎をきずいた。さらに10世紀、市井(しせい)の聖(ひじり)空也が民間に浄土信仰を広め、浄土教美術の発展の下地が準備された。
平安中期になると浄土教美術は飛躍的に発展する。この発展に決定的な影響をおよぼしたのが比叡山横川の僧源信である。985年(寛和元)に彼が撰述した「往生要集」は阿弥陀の姿を観想し、仏の名をとなえることをすすめると同時に、臨終の際に阿弥陀が来迎し、衆生を極楽に往生させる来迎引接の功徳を説いた。また当時の社会は末法思想が急速に広がり、浄土への往生を希求する風潮が醸成されていた。こうして数多くの阿弥陀如来像および阿弥陀堂建築、阿弥陀来迎図が貴顕によってつくられた。
本格的な阿弥陀堂の嚆矢(こうし)は1020年(寛仁4)に藤原道長が建立した法成寺阿弥陀堂(無量寿院)であるが、現存する遺構としては53年(天喜元)に道長の子頼通が建立した平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)をはじめ法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂、富貴寺大堂などがある。また、九品思想(くほんしそう:生前の行いにより人間を上・中・下の3種にわけ、そのそれぞれに上・中・下の往生の段階があるとする考え方。これによると、往生には上品上生から下品下生まで9つの段階がある)にもとづく九体阿弥陀仏を安置した九体阿弥陀堂の唯一の遺構として浄瑠璃寺阿弥陀堂がある。こうした建築の多くは、浄土図に描かれた宝池殿を再現した浄土庭園が付随する。
これらの諸堂には本尊として阿弥陀如来像が安置されていたが、なかでも平等院の阿弥陀如来座像は平安時代の大仏師定朝の現存する唯一の作品として貴重で、「尊容満月のごとし」と賞賛される像容は平安時代特有の温雅な作風をしめす。また、法界寺や法金剛院、三千院などの阿弥陀像は、その像容を定朝の阿弥陀にならう。これらの阿弥陀仏は一般に「定朝様」と称される。
この時代、新たに創出された来迎図では、平等院阿弥陀堂の周囲の扉や壁に描かれた九品来迎図をはじめ高野山の阿弥陀聖衆(しょうじゅ)来迎図、鶴林寺(かくりんじ)太子堂仏後壁の九品来迎図があるが、高野山西禅院の阿弥陀浄土図や高野山蓮華三昧院の阿弥陀三尊など伝統的な浄土図も多数制作された。
| 4. | 鎌倉時代 |
鎌倉時代になると来迎図のバリエーションもふえ、知恩院本に代表される阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)や禅林寺本で有名な山越(やまごえ)阿弥陀図、さらには二河白道(にかびゃくどう)図などの特殊な来迎図が生まれた。
壮麗な阿弥陀浄土図や来迎図が制作される一方で、「往生要集」にみられる厭離穢土(おんりえど)の思想によって現世の無常が説かれ、救済のない絶望的な六道輪廻の苦しみを図示した六道絵も制作された。六道絵では鎌倉時代制作の聖衆来迎寺本が著名であるが、地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙などの平安末期の作品も六道絵の一種と考えられる。その他、釈迦、弥勒、観音、地蔵などの来迎図や、名号(仏・菩薩の名)を中心に描いた光明本尊、冥府(めいふ)にあって死者をさばく10人の王を描いた十王図、浄土祖師像などさまざまな遺品をのこす。