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| I. | プロローグ |
歴史の時代区分で、中世あるいは近世につづく時代をさし、現代の前の時代をいう。西欧では、封建社会(→ 封建制)を脱却した後の資本主義社会を近代とするのが一般的で、資本主義は15世紀末から16世紀前半ころにはじまるとされる。しかし、狭義の近代は、15~18世紀ころを近代国家の萌芽期とみなして近世とよび、18世紀末~19世紀半ばの産業革命をへて産業資本が確立する時点からはじまるとされる。
この時期は、資本主義をになう市民社会(→ 市民)が形成される時期にあたる。このため、17世紀イギリスでのピューリタン革命・名誉革命(あわせてイギリス革命)、18世紀末のフランス革命を典型とする市民革命を、近代の指標と考えることもできる。しかし、西欧と東欧、アジアなどでは、前提となる歴史や社会がことなるため、同一視することはむずかしい。今日では、どの地域でも、資本主義経済と市場経済の体制にむかうことをもって、近代化といわれる。
| II. | 日本の近代はペリー来航が契機 |
日本の歴史時代区分では、中世の後に近世をおく。近世は織豊政権の安土桃山時代から江戸時代に相当し、この時代は藩主のもとで土地や身分関係は固定されているため封建社会であったが、商業資本が形成され、全国的な市場がつくられていることを特徴とした。
1853年(嘉永6)のペリー艦隊(黒船)の来航に象徴される西欧列強の圧力(外圧)、また西欧列強によるインドや中国の植民地化(→ 植民地と植民地主義)をみた日本は危機感をもち、明治維新によって近代にはいらざるをえなかった。そのため、68年(明治元)に成立した明治新政府は、西欧をモデルにした、「上から」の近代化政策をとることになる。
| III. | 明治政府の近代化政策 |
富国強兵をはかるためには、まず「国民」をつくりだすことが急務であった。四民平等の諸政策により、封建的な身分制度をなくし、国民皆兵の徴兵制(1873)を施行した。また、殖産興業のためには、農民層から労働者をつくりだすことも必要であった。地租改正(1873)で農民の土地の私有権をみとめ、地価にみあった税(地租)を徴収するようにしたことにより、地主制が全国に広がる一方、土地をもたない農民は都市労働者化していく。
さらに、学校教育の普及についても、良質の労働者を確保するためにいそがれた。学制の制定(1872)による国民皆学の制定をへて、1886年の小学校令で義務教育の制度が広がるが、江戸時代に寺子屋が普及していたことは、学校教育が浸透する下地ともなった。
このように、徴兵、徴税、義務教育の体制を確立したことは、近代の特徴である「国民国家」への道が準備されたことでもあった。
| IV. | 殖産興業と植民地支配 |
産業資本の蓄積の薄さをカバーするために、明治政府がとった殖産興業の方針は、官営(国営)事業で産業の育成をはかることであった。紡績、製糸、セメント、造船、鉱山、鉄鋼など素材産業や製造業を、西欧から輸入した機械を使用して国営ではじめ、1880年代以降、それらを民間にはらいさげていった(→ 官業払下げ)。ここから国家と密着した財閥が誕生することになる。
やがて日本の産業は、日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)、第1次世界大戦(1914~18)という戦争を展開点に、紡績などの軽工業から、機械製造などの重工業、化学工業へと進展していった。日本における産業資本の確立を日露戦争時とする見方が一般的なのは、この点によるものである。それは同時に、台湾、朝鮮や満州(中国東北部)への日本の植民地支配の拡大にもつながった。
戦争と侵略による近代化の達成という性質は、第2次世界大戦の敗戦までつづき、この敗戦が日本の近代の終わりであり、現代の始まりとされる。
| V. | 天皇制のもとでの近代化 |
西欧における近代の特徴は、市民的自由を獲得した市民社会の存在であった。日本でも西欧にならった「自由民権」の運動はあったが(→ 自由民権運動)、主権在民が確立せず、天皇に主権がある明治憲法(大日本帝国憲法)がつくられた。そのため言論、集会、結社、信教などの市民的自由は大きく制限された。天皇が直接統治することはまれで、君臨する支配形態だったが、ことあるごとに「皇国」意識の高揚がはかられ、そのたびに市民的自由は制限をうけた。
主権在民が確立するのは、敗戦後の1946年(昭和21)に公布される日本国憲法(平和憲法)によってである。敗戦をもって、近代がおわり、現代がはじまるとするのは、このことにもよる。
→ 明治時代