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ブッシュ,G.W.
I. プロローグ

1946~ アメリカ合衆国第43代大統領。在任2001~09年。テキサス州知事をつとめたあと、2000年の大統領選挙(大統領制)に出馬し、民主党候補のアル・ゴア副大統領を僅差(きんさ)でやぶって選出された。父のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュも大統領(第41代。在任1989~93年)、弟のジェブはフロリダ州知事、祖父も上院議員だった。

コネティカット州ニューヘブンに生まれる。1948年、一家はテキサス州オデッサにうつり、その地で父は石油事業にのりだした。やがて一家はテキサス州のフォートワースから490km西部にあるミッドランドという町におちついた。息子のブッシュは、父と同じエール大学にすすみ、68年に歴史学の学士号を取得した。

大学卒業の年、テキサス州空軍のパイロット訓練生となり、ジェット戦闘機のパイロットとして州空軍勤務をはじめた。1973年の除隊後にハーバード大学ビジネス・スクールに入学し、75年に経営学の修士号(MBA)を取得した。70年代後半、ブッシュは父にならってテキサス西部で石油およびガスの事業をはじめた。89年には投資家をつのって大リーグの野球チーム、テキサス・レンジャーズを買収し、オーナーとなっている。

政界進出の第一歩は、1978年の下院議員への共和党からの立候補だったが、この選挙にはやぶれた。しかし、94年のテキサス州知事選に当選して政界入りをはたし、98年には再選された。このテキサス州知事時代にブッシュは、「思いやりのある保守主義」とよぶ政治哲学をつくった。それは、保守的な社会観、財政観を根幹とし、少数派や貧困者へも教育や仕事の機会を均等にあたえるために積極的に行動するというものである。

II. まれにみる僅差で大統領に

1999年6月、ブッシュは大統領選出馬を表明し、共和党の予備選挙でいくつかの大勝利をおさめて翌2000年8月に大統領候補者指名をうけた。大統領選挙では「思いやりのある保守主義」をかかげ、教育改革や大規模な所得税減税などを有権者にうったえた。11月の一般投票はまれにみる僅差の戦いとなり、フロリダ州の再集計をめぐっては裁判へと発展、36日間も勝敗がきまらなかったが、かろうじて勝利した。

III. 第1期ブッシュ政権

2001年1月の就任演説でブッシュは、人への思いやりというテーマに繰り返し言及し、貧困者・弱者への配慮や個人の責任感の大切さをのべた。正義と機会に裏打ちされた国家をきずくことをちかい、礼節、勇気、思いやりをもって自己の責任をはたすことを強調した。

1. 国内政策

ブッシュ大統領は教育を最優先課題とし、「落ちこぼれ」をなくそうとさっそく教育予算を増額した。また、最大の公約だった大型減税法を成立させた。環境政策はクリントン前政権より後退したが、エネルギー政策の転換には積極的で、原子力発電を二酸化炭素など温室効果ガスの出ないクリーンなエネルギーと位置づけ、原子力発電所建設へ前向きな姿勢をみせた。就任から約8カ月後の2001年9月にはニューヨークなどでアメリカ同時多発テロが発生、アメリカ国民に大きな衝撃をあたえた。ブッシュ政権は「対テロ戦争」の開始を宣言した。

2001年末から02年にかけて、エンロンやワールドコムなど巨大企業による粉飾決算問題がつづいておき、ブッシュ政権と証券取引委員会(SEC)は株式市場の信頼回復のために、企業改革法(サーベンス・オクスレー法)を成立させた。また03年1月には、連邦政府のテロ対策を強化するために省庁の担当機関を統合するかたちで国土安全保障省を発足させ、同年3月には大量破壊兵器開発疑惑を理由に国際世論の反対をおしきってイラク戦争へと突入した。04年の景気は回復基調となったが、大型減税の代償やイラク戦争でのアメリカ軍駐留経費がかさみ、財政赤字は2年連続で過去最大を記録した。

2. 外交政策

ブッシュ大統領は、はじめての外遊でメキシコを訪問するなど、ラテンアメリカ重視の意向をしめし、米州自由貿易地域(FTAA)の実現をめざした。2003年にはチリやシンガポールと自由貿易協定(FTA)を調印、翌年にはオーストラリアとも自由貿易協定を締結するなど、他地域でも自由貿易協定締結交渉を積極的にすすめた。

安全保障では、NMD(国家ミサイル防衛)とTMD(戦域ミサイル防衛)の区別をなくした「新たなミサイル防衛構想」(MD構想)を提唱。そのために2001年12月、ABM制限条約からの脱退をロシアと旧ソビエト連邦諸国に通告した。規定にしたがい、02年6月にABM制限条約は失効した。

ブッシュ大統領が2001年3月に地球温暖化防止のための「京都議定書」への不参加を表明した問題では、ヨーロッパ諸国や多くの環境NGO(非政府組織)からはげしい批判をあびた。先進国が地球温暖化をまねく二酸化炭素などの排出規制をみずからに課すこの議定書には、1997年にアメリカ政府も署名している。不参加のおもな理由は、途上国が削減義務から除外されていること、アメリカ経済に深刻な打撃をあたえるということだったが、世界最大の温室効果ガス排出国アメリカの不参加表明は国際社会に重大な影響をおよぼした。

2.A. 対テロ戦争とブッシュ・ドクトリン

2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件では、テロに対する断固とした対決姿勢を内外にしめした。「対テロ戦争」を遂行するとしてアフガニスタンのタリバーン暫定政権に、テロ容疑者であるアルカーイダの指導者ウサマ・ビンラーディンの引き渡しを要求。タリバーン政権に要求を拒否されると、10月にアフガニスタンの軍事施設を中心に空爆を開始した。またアフガニスタン国内の反タリバーン勢力である北部同盟による各都市の地上攻撃と制圧を支援し、12月には対タリバーン戦の勝利を宣言した。

ブッシュ大統領はまた、イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を「悪の枢軸」と名指し、とりわけイラクについては、国連による大量破壊兵器の全面査察をうけいれないことや、アルカーイダをかくまっている疑いがあることを理由に、先制的な武力攻撃も辞さないとした。こうしたテロ組織や「悪の枢軸」との戦いを国家戦略にまで高めたのが、2002年9月に発表した「国家安全保障戦略」(ブッシュ・ドクトリン)だった。

2.B. イラク戦争

2003年3月、ブッシュ政権は査察問題をめぐる国連安全保障理事会での協議をうちきり、イギリス軍とともにイラク戦争へと突入。ブッシュ大統領は、イラクに民主主義をもたらし、大量破壊兵器を発見するとしたが、フセイン政権の崩壊後も、その証拠を発見することはできなかった。イラク復興と占領統治はアメリカが中心となってすすめたが、各地で武装勢力による自爆テロや人質誘拐事件が頻発し、戦争は泥沼化していった。

IV. 第2期ブッシュ政権

2004年11月の大統領選挙では、イラク戦争、テロ・国土安全保障、経済政策が大きな争点となった。ブッシュ大統領は、イラクに大量破壊兵器がなかったことはみとめながらも、旧フセイン政権がアメリカの脅威だったことにかわりはなく、それをのぞいたことで世界はより安全になったと主張し、国際協調をかかげる民主党のジョン・ケリー上院議員をかろうじてしりぞけた。

ブッシュ大統領は選挙後の勝利演説で、これからも経済成長を継続し、古めかしい税制を改革することや、イラクとアフガニスタンの民主主義を支援し、対テロ戦争をたたかいぬくことを宣言した。しかし、2期目のブッシュ政権の支持率は低下の一途をたどった。2005年8月には、超大型ハリケーン「カトリーナ」が来襲、ルイジアナ州ニューオーリンズで多数の犠牲者が出て、政府の対応の遅れが批判された。政権の求心力がうしなわれる中で、イラクでの米兵の死者はふえつづけ、06年1月におこなわれたパレスティナ評議会選挙ではイスラム原理主義政党のハマス政権が発足、中東和平はふたたび遠のいた。また、6カ国協議で話しあってきた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発問題も解決にいたらず、同年10月、北朝鮮はついに地下核実験をおこなった。その後、08年10月に北朝鮮に対するテロ支援国家指定を解除したが、核開発問題の解決に大きな進展はみられなかった。

政権末期の2008年夏には、サブプライムローン問題に起因する深刻な金融危機にみまわれ、ブッシュ政権が推進してきた新自由主義的(自由主義:自由放任主義)な経済政策の行き詰まりが露わになった。このアメリカ発の金融危機はすぐ世界じゅうに拡大し、単独行動主義と批判されたイラク戦争や対テロ戦争、京都議定書離脱問題とあわせ、2期8年におよんだブッシュ政権の評価を大きく傷つけた。