| ウサマ・ビンラーディン | 項目ビュー | ||||
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| III. | アフガニスタン入りとタリバーンとの関係 |
1979年にソ連によるアフガニスタン侵攻がはじまると、イスラム聖戦士(ムジャヒディン)としてアフガニスタンに入った。そして、アラブ人義勇兵の受け入れ組織「奉仕者の家」を主催していたヨルダン系のイスラム法学者アブドラ・アザムにあい、その影響をうけて、みずから義勇兵斡旋組織(あっせんそしき)「聖戦と救済」を創設して、そのスポンサーとなった。当初は建設のプロとして、やがて野戦司令官として活躍した。
1989年に対ソ戦が終結すると、サウジアラビアに帰国したが、90年の湾岸危機勃発(ぼっぱつ:→ 湾岸戦争)でサウジアラビアがアメリカ軍の駐留をみとめたことを批判して、91年にスーダンで活動を開始した。スーダンでは建設土木工事、銀行経営等で手腕を発揮するとともに、スーダンとアフガニスタンにテロリスト訓練施設をつくり、中東、ヨーロッパ、アメリカにネットワークをきずきあげた。
ウサマはサウジアラビア王室に対する革命運動も手がけたため、1994年にビンラーディン本家から絶縁を宣言され、サウジアラビアから国籍も剥奪(はくだつ)された。同年、アフガニスタンでタリバーンが旗揚げすると、ウサマはタリバーンとの関係を深めていった。
1996年にスーダンからも追放され、アフガニスタンのジャララバード近郊にうつり、タリバーンの食客として庇護(ひご)をうけた。しかしほどなく、極端なイスラム化政策で国際的に孤立したタリバーンは、ウサマのもつ資金力をあてにするようになり、逆にウサマにのっとられる状態となった。