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アメリカ同時多発テロ
I. プロローグ

2001年9月11日朝(現地時間)、ニューヨークのワールド・トレード・センタービル(世界貿易センタービル)と、ワシントンのアメリカ国防総省(ペンタゴン)へ、3機のハイジャックされた中型旅客機が突入した事件。同じくハイジャックされたもう1機はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に墜落した。この事件で約3000人の犠牲者が出、テロ事件としては史上最大の被害となった。アメリカ本土が外からうけた攻撃による被害でも、同国史上最大のものであった。

アメリカ政府は、事件直後に、ウサマ・ビンラーディンが主宰するテロ組織、アルカーイダによる犯行と断定。彼らが潜伏するアフガニスタンのタリバーン政権に身柄の引き渡しをもとめた。しかしタリバーン側がうけいれなかったため、10月8日(現地時間、アメリカ時間では10月7日)、アフガニスタンにあるアルカーイダの拠点とタリバーン政権の軍事施設への空爆を開始した。

それに呼応して地上では、北部同盟(正式な名称は「アフガニスタン救国イスラム統一戦線(UIFSA)」)を中心とする反タリバーン勢力が、首都カブールなど主要な都市を次々にうばってタリバーン政権を崩壊させ、12月に暫定政権を発足させた。この間アメリカ軍は、ビンラーディンとタリバーンの指導者オマール師の捕捉作戦(ほそくさくせん)を展開したが、2人の行方は定かでない。

冷戦終結後の世界では、極左テロが減少し、宗教、民族を背景としたテロが主流となってきた。なかでもイスラム過激派によるテロが頻発し、その最たるものがこの事件であった。その結果、テロをなくす世界的な取り組みが21世紀初頭の緊急な課題となった。またアメリカ政府が、アフガニスタン攻撃を、テロ組織壊滅をめざす「新たな戦争」と位置付けたように、これまでの戦争概念とはことなった質の「戦争」が登場し、その是非をめぐっても世界的な議論をよびおこすことになった。

II. 同時多発テロの概要

ハイジャックした航空機をビルに突入させるという前代未聞の自爆テロが発生したのは、2001年9月11日朝のことであった。まず、午前8時45分ごろ(日本時間同日午後9時45分ごろ)、ボストン発ロサンゼルス行きアメリカン航空11便(ボーイング767型機、乗客・乗員92人)が、ニューヨークの世界貿易センタービルのツインタワー北棟(110階、約417m)上部96~103階付近につっこんだ。ついで9時3分ごろ、ボストン発ロサンゼルス行きユナイテッド航空175便(同型機、同65人)が、南棟(110階、約415m)上部87~93階付近に突入した。

さらに9時45分ごろ、ワシントン発ロサンゼルス行きアメリカン航空77便(ボーイング757型機、同64人)が、ワシントン郊外のアメリカ国防総省につっこんだ。10時10分ごろには、ニューアーク発サンフランシスコ行きユナイテッド航空93便(同型機、同44人)が、ピッツバーグ郊外に墜落したが、これは乗客の抵抗によって突入をまぬがれたものとみられている。

航空機の突入により、世界貿易センタービルでは火災が発生し、10時ごろに南棟が、10時30分ごろには北棟も崩落した。また翌日以降周辺のビルのいくつかも崩壊した。これらの結果、避難できず内部に閉じこめられた人々や救助の消防士ら、2749人が死亡したとされる。また国防総省も旅客機の突入した西側部分が破壊されるとともに火災が発生し、乗員・乗客をふくめ189人が犠牲となった。

自爆テロを実行したハイジャック犯は、各機に4~5人ずつの計19人で、全員が中東系で7人がパイロット資格をもっていた。ほどなく、その全員がビンラーディンひきいるテロ組織アルカーイダのメンバーと特定された。

III. アメリカ政府の対応

テロ発生からわずか数時間後、ブッシュ大統領は、テロに屈せずテロを撲滅する決意をアメリカ国民と世界にしめした。国防総省はただちにインド洋に「カール・ビンソン」と「エンタープライズ」の2隻の原子力空母を派遣し、イージス艦7隻も展開した。さらにホイットマン空軍基地のB-2ステルス爆撃機、ディエゴガルシア島(チャゴス諸島)に展開したB-52爆撃機も待機態勢に入った。

9月14日、ブッシュ大統領が非常事態を宣言、国防総省は新たなテロにそなえて、州兵をふくめた予備役5万人の動員を決定、本土防衛用に3万5000人を緊急動員した。都市防空、港湾防衛などこれらの軍事行動は、「気高き鷲(ノーブル・イーグル)作戦」と命名された。また同日、アメリカ上院はテロへの対抗策として武力行使容認決議を採択、翌15日には下院も採択した。アメリカ国民はブッシュ大統領のテロ対抗策を圧倒的に支持した。

アフガニスタンのタリバーン政権は、アメリカ政府のビンラーディン引き渡し要求に対し、引き伸ばしをはかった。そのためアメリカは、タリバーン政権に外交的圧力をくわえるとともに、ビンラーディンとアルカーイダ、そしてタリバーン政権をも視野にいれたアフガニスタン制裁のための軍事作戦、「限りなき正義(インフィニット・ジャスティス)作戦」(後に「不朽の自由(エンデュアリング・フリーダム)作戦」に変更)を9月19日に発動させ、アフガニスタン周辺地域への軍備の集積をすすめた。

IV. 国連や主要国の動き

未曽有のテロに対する国際社会の反発は大きかった。国連は9月12日にテロ非難決議をあげ、同じ日にNATO(北大西洋条約機構)も緊急理事会を開いて、アメリカの要請があればNATO条約にもとづく集団的自衛権行使を決定した。13日にはNATOとロシアが、国際社会が結束してテロとたたかうよう共同声明を発表した。15日にはタリバーンの後援国であったパキスタンさえもが、アメリカ支援に同意した。

アメリカは英仏独といった主要同盟国はもとより、サウジアラビアやインドとも協議をすすめ、断交状態にあったイランとの水面下での交渉もおこない、一定の協力をとりつけた。また敵対するキューバやスーダンにさえ接触した。9月20日、ブッシュ大統領は国際テロ組織の壊滅にアメリカの総力をそそぐ決意を宣言し、国際社会にアメリカにつくかテロ組織につくかの選択をもとめた。

その後、タリバーン政権と外交関係をもっていた3カ国のうち、アラブ首長国連邦、サウジアラビアが断交を宣言、パキスタンのみが外交関係をのこすことになり、タリバーン政権の孤立は深まった。アメリカはさらに外交攻勢を強め、パキスタンを軍事拠点として使用する許可をとりつける一方、ロシアの協力をえて、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンといったアフガニスタン北部の旧ソ連圏諸国へのアクセスを確保した。これによりタリバーン政権は完全に包囲されることになった。

V. アフガン攻撃

10月初めまでにアメリカ軍は、兵員2万9000人、艦船20隻以上、航空機300機以上を、アフガニスタン周辺に集結させ、最大の同盟国イギリスも、兵員2万3000人、艦船24隻、航空機50機以上を派遣した。さらにアメリカ軍のデルタフォース、シールス、イギリス軍のSASといった特殊部隊も、アフガニスタンへの潜入を開始した。

10月7日、ついにアフガニスタンへの攻撃が開始された。目標となったのは、首都カブールの空港、国防省、テレビ局、ジャララバードのテロリスト訓練施設、カンダハールのタリバーン本拠地など30カ所にのぼった。アメリカは第一撃で、貧弱なタリバーンの防空施設を壊滅させ、アフガニスタンの制空権をにぎった。

アメリカは同時にタリバーンの暴政と天候不順により飢饉(ききん)にあえいでいたアフガニスタン国民への救援物資として、輸送機による空中からの食料投下もおこなった。10月16日には、攻撃目標は地上部隊へとうつり、19日にアメリカ軍特殊部隊が、カンダハール近郊の飛行場を奇襲占領するような特殊作戦も敢行された。

VI. 北部同盟などの動き

アメリカがアフガニスタンで大規模な地上戦をおこなう意思のないことは当初から予想されていたが、それを裏付けるように、地上戦の担い手は、アフガニスタン北部でタリバーンとの戦いをつづける北部同盟となった。北部同盟は1996年9月のタリバーンによるカブール制圧に対抗して、タジク人中心で前アフガニスタン大統領のブルハヌッディン・ラバニがひきいる「イスラム協会」、ウズベク人中心でラシド・ドスタム将軍ひきいる「アフガニスタン・イスラム運動」、ハザラ人中心の「イスラム統一党」の3派が結成した、反タリバーン連合であった。

反タリバーンだけが共通点の寄り合い所帯であった北部同盟は、兵力も少なく装備も劣悪で、これまでタリバーンに敗戦を重ねていた。しかしアメリカ軍による近接航空支援をえて攻勢へと転じた。当初は時間がかかったものの、11月10日に北部の要衝マザーリシャリーフを陥落させると、13日には首都カブールを攻略した。アメリカ政府などは北部同盟の突出をきらい、カブールの早期攻略ものぞまなかったが、進撃の勢いをとめることはできず、タリバーンはほとんど抵抗せずカブールを撤退した。

VII. タリバーン政権の崩壊と暫定政府の樹立

11月25日、アメリカ海兵隊正規軍がカンダハール周辺に投入され、タリバーンの「首都」といわれるカンダハールへの攻撃が本格化した。12月6日、タリバーンはカンダハールの明け渡しに同意し、翌7日にカンダハール周辺3州を地元パシュトゥーン人勢力にひきわたし、すべての支配地域をうしなうことになった。これにより、タリバーン政権は完全に崩壊した。

タリバーン政権の崩壊をうけて、世界の関心は、タリバーン以後のアフガニスタンの政治体制をどのように構築するかに移行した。政権の受け皿をめぐっての綱引きは、すでにアメリカ軍の攻撃開始に前後してとりざたされてきたが、公式協議は11月27日に、北部同盟と、ローマに亡命している元国王ザーヒル・シャー支持派、さらにイラン寄りの亡命者を主体としたキプロス・グループ、パキスタンにのがれていたペシャーワル・グループの4派をあつめて、ドイツのボンで開始された。各勢力間の政権ポスト争いで協議は難航したが、アメリカを初めとする国際社会の圧力もあり、会期延長のうえ、ようやく12月4日未明に暫定政権の樹立に合意した(翌5日に調印)。

暫定内閣の議長には、ザーヒル・シャー支持派でアフガニスタン最大民族パシュトゥーン人のハミド・カルザイがえらばれ、各派のバランスをとった組閣名簿がつくられた。暫定政権は12月22日に発足し、これをささえ、アフガニスタンの治安維持にあたる、イギリス軍を中心とした多国籍部隊「国際治安支援部隊(ISAF)」の派遣決議案も、12月20日に国連安保理で採択された。

以後の推移についてはアフガニスタンを参照。

VIII. 日本の対応

このテロ事件に関しては、湾岸戦争のときの反省から日本の対応はすばやかった。9月12日に小泉純一郎首相は、「日本としてもテロに屈しないという米国の姿勢を支持し」、アメリカがテロリストに対して断固たる処置をとることに支持を表明した。そして19日に発表されたテロ対応処置では、アメリカ軍に対する医療、輸送、補給などの支援活動、自衛隊による在日米軍基地の警備、情報収集のための自衛艦艇の派遣などがきめられた。

その法的根拠をつくるために、臨時国会では、10月29日に自衛隊法改正やテロ対策特別措置法が成立した。ただし、実際にはこれをまたず9月21日に、海上自衛隊の艦艇が横須賀を出港する米軍空母を日本近海で護衛している。そして、11月9日に「調査・研究」目的で護衛艦2隻と補給艦1隻がインド洋に派遣され、自衛隊による在日米軍基地警備も13日に開始された。

テロ対策特別措置法にもとづく自衛隊の艦艇と航空機の派遣は、11月20日に決定され、海上自衛隊の補給艦2隻と護衛艦3隻、航空自衛隊の輸送機6機、多用途支援機2機が派遣(この艦艇の一部には先に派遣された護衛艦および補給艦があてられる)、また被災民救援活動のため掃海母艦1隻の派遣を決定した。

この自衛隊の役割は、海上での物資輸送が軸で、あくまでも後方支援にとどまり、イギリスのようにアメリカ軍とともにアフガニスタンの前線でたたかうことはない。日本のこのような立場はアメリカも理解し、支援のための自衛隊の派遣を好意的にうけとめた。