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西洋音楽
I. プロローグ

ヨーロッパおよびヨーロッパ人が移住した地域の音楽。インド、インドネシア、イスラム文化圏、中国、日本などとならんで、世界の主要な音楽体系の一角をになう。本項では西洋の芸術音楽について記述し、民俗音楽、ポピュラー音楽には言及しない。

II. 古代の音楽

紀元前2000年ごろのヒッタイト音楽については楔形文字(くさびがたもじ)による記録を解読する努力がつづけられているが、現在のところ、知られている最古のヨーロッパ音楽は、前500年ごろ~後300年ごろの古代ギリシャと古代ローマの音楽である。現存するギリシャ音楽は10曲ほどで、アルファベットの文字譜で記録されているが、確かな解読法は確立されていない。しかし、古代ギリシャとローマの音楽観および音楽理論は、アリストテレス、ボエティウス、プラトン、ピタゴラスといった哲学者の著作を通じて詳細につたえられている。それによれば、音楽とはアポロン、神話の中の楽師オルフェウス、そのほかの神々が創造したものであり、宇宙を支配する調和の法則を圧縮したミクロコスモス(小宇宙)と信じられていた。さらに音楽は、人間の思考と行動に影響をおよぼすものと考えられた。古代ギリシャ音楽は、一度に1つの旋律だけを演奏するモノフォニーが基本である。ただし、もとの旋律が演奏されている間に、一部の楽師が多少変形した旋律を同時に演奏することがあり、その場合にヘテロフォニーとよばれるやや複雑な構造がつくりだされた。

ギリシャ音楽のリズムは、言葉と密接に関連している。歌では、歌詞の韻律がそのまま音楽のリズムになった。器楽でも、詩のさまざまな韻律パターンにしたがってリズムがきざまれた。ギリシャ音楽の構造は数種類の旋法を基盤にしており、それぞれの旋法には固有の旋律型とリズム・パターンがあった。このような音楽体系は、今日のアラブ音楽、インド音楽にも見いだされる。ギリシャの各旋法は、固有の旋律的・リズム的な特色をもっていたので容易に識別することができた。古代ギリシャの哲学者は、各旋法には独自の感情があり、人は音楽を聴くことによってその旋法がもつ感情を体験できた、と書きのこしている。ただし、ギリシャ音楽の残存例はあまりに少なく、この考え方が実体験にもとづくものなのか、あるいは仮説にすぎないのか定かではない。

古代ギリシャの楽器では、アポロンの楽器とされた竪琴型(たてごとがた)のキタラと、ディオニュソスの縦笛アウロスがよく知られている。キタラには聴く者の気分をおちつかせたり、ふるいたたせたりする効果があり、アウロスは興奮を伝達したとされる。これらの楽器は宗教儀式のほか、劇場でも古代ギリシャ演劇の伴奏にもちいられた。器楽は前300年ごろに最盛期をむかえ、たくさんの奏者が参加してコンクールが盛んに開かれた。

古代ローマ人はギリシャの音楽伝統をそのままうけついで、独自の貢献はほとんどしていないようである。ただし、何種類かの金管楽器を発達させ、戦場や軍隊の行進で活用した。また、水圧を利用して空気をパイプにおくりこむヒュドラウリス(水圧オルガン)を発明した。

ギリシャ音楽

III. 中世初期

中世の職業音楽家は、ほとんど全員がキリスト教会につかえていた。教会は古代ギリシャや古代ローマの宗教を異教とみなして排斥したため、それらの音楽は演奏されなくなり、ギリシャ、ローマの音楽は衰退した。

初期キリスト教会の典礼にもちいられた無伴奏の聖歌については、ほとんどわかっていないが、キリスト教の聖歌がユダヤ教会の典礼音楽や当時の世俗音楽から生まれたことは明らかである。5~7世紀に、ローマ・カトリック教会で発展した聖歌の旋律が目録化され、典礼儀式の中の特定の場所にわりあてられた。ローマの聖歌はやがて、教皇グレゴリウス1世にちなんで「グレゴリオ聖歌」とよばれるようになる。グレゴリウス1世は、教会の儀式の中で音楽を秩序だてて使用することを奨励し、みずからも何曲かの聖歌を作曲した可能性がある。グレゴリウス1世のみならず、のちの教皇もヨーロッパのあちこちでうたわれていた聖歌よりグレゴリオ聖歌をこのんだため、ついにはこの聖歌がほかのほとんどの聖歌を駆逐した。グレゴリオ聖歌やほかの聖歌は、多くの写本によって今日までつたえられている。これらの写本はネウマとよばれる記号で書かれており、ネウマ記譜法は現代の記譜法の始祖となっている。

はやくも9世紀には、無伴奏の旋律ではなく、もっと手のこんだ音楽をもとめる気運が、生じていた。聖歌の声部と別の声部を同時にうたう試みが、このころはじまった。こうしてできた音楽様式が、オルガヌムである。初期のオルガヌムは、聖歌の旋律と、それをただ4度ないし5度上にうつしただけの旋律が同時にうたわれるだけであったが、のちに付加された声部は独自の対旋律をもつようになった。オルガヌムは、ポリフォニー(多声音楽)とよばれる音楽構造への第一歩であり、その意味で音楽史上できわめて重要なものである。ポリフォニー原理の広範な使用こそ、西洋音楽の際だった特徴にほかならない。

演奏家が同時に演奏される別々の声部をすぐによみとって演奏するためには、正確な記譜法の開発が不可欠であった。ピッチ(音高)を明確にしめすために、4線、5線、それ以上の数の譜線がもちいられるようになり、現在の五線譜と同様にそれぞれの譜線と譜間が特定のピッチをあらわした。この記譜法を完成した人物は、11世紀イタリアのベネディクト会修道士グイード・ダレッツォといわれる。

音価(音の長さ)は、ピッチよりも記譜が困難であった。11~12世紀には、短いリズム・パターン(リズム・モードとよばれる)をしめす「モーダル記譜法」が考案される。1つのリズム・パターンは、別のリズム・パターンが指示されるまで、何度となく反復された。モーダル記譜法をもちいると、同時に演奏される各声部にことなったリズム・パターンを導入したり、曲の途中でパターンをかえたりすることが可能になり、リズムの動きに多彩な変化をくわえることができた。13世紀末になるとモーダル記譜法はすたれて、音価の長い音符と音価の短い音符をくみあわせる方法がもちいられるようになり、現代記譜法の原型ができる。

オルガヌムは教養ある聖職者が中心となってそだて、発展させたが、教会の外には、もっと単純な構造の世俗音楽があった。これは、フランスのジョングルール、後代のトルバドゥールやトルベール、あるいはドイツのミンネジンガーなど、旅回りの楽師たちが演奏したモノフォニー音楽である。

教会音楽も世俗音楽も、さまざまな楽器を使用した。弦楽器ではリラ、プサルテリウム(チター型の楽器)、ビエル(中世のビオラ)、鍵盤楽器ではオルガン、打楽器では小さな太鼓や鈴がもちいられた。

IV. 中世後期

14世紀初め、音楽の様式に大きな変化が生じる。新しい様式は、フランスの司教フィリップ・ド・ビトリによって「アルス・ノバ(新芸術)」と名づけられた。ビトリ自身、アルス・ノバの主要な作曲家のひとりであった。アルス・ノバ様式の音楽は、人間の多様な個性と創意を尊重しはじめたヨーロッパの新しい気風を反映して、前代の音楽よりも複雑になった。ビトリはまた、リズムをしめすことができる新しい記譜法、すなわち定量記譜法を体系化した。この記譜法では、現在の記譜法のように拍子記号が使用された。この結果、14世紀の作曲家はリズムの扱いにより大きな自由を獲得する。

アルス・ノバの音楽は、さまざまな側面で従来になかった複雑さをみせた。たとえば、リズム・モードの原理を拡大して多数の音をくみあわせたリズム・パターンを使用し、それを楽曲の1声部もしくは複数の声部でくりかえし反復する技法を開発した。この技法はアイソリズム(ギリシャ語で「等リズム」の意味)とよばれる。アルス・ノバの作曲家はアイソリズムの1声部を土台として、その上にいくつもの旋律を重ね、こみいった多声構造の大曲を作曲した。土台となる基本声部には通常、グレゴリオ聖歌がつかわれた。こうした借用旋律のことをカントゥス・フィルムス(定旋律)という。アイソリズムの原理がもっとも盛大に活用されたジャンルは、宗教声楽曲モテットである。14世紀のモテットの中には、複雑な多声構造にくわえて、各声部がことなった歌詞を同時にうたうものもある。

ミサ曲も、アルス・ノバの時代に複雑化した。1300年以前のミサ曲は多声楽曲であることがめずらしく、たとえ多声曲であってもミサの一部をバラバラに作曲していた。14世紀になってはじめて、ミサ通常文(毎日のミサでかわることなく使用される文)の5つの部分(キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ)が、ひとまとまりとして作曲されるようになった。これをこころみた最初の作曲家は、フランスのギヨーム・ド・マショーである。ただし、彼のやり方にならう作曲家は、15世紀になるまでいなかった。

世俗音楽に関心をむけたことも、アルス・ノバの際だった特徴だった。その時代の代表的作曲家が宗教音楽のみならず、世俗音楽を作曲するようになったのは史上はじめてのことである。13世紀のトルバドゥールやトルベールのうたっていた単旋律の歌が、14世紀の作曲家によって2声ないし3声のシャンソンにつくりかえられた。シャンソンでは、歌詞を1行ずつ反復してうたい、その反復パターンが音楽の構造をも形成した。フランスではロンドー、ビルレー、バラードの形式がひろくもちいられ、イタリアではマドリガーレ、カッチア、バラータがこのまれた。当時のイタリアで最大の作曲家は、フランチェスコ・ランディーニであった。

V. ルネサンス時代

15世紀初期はアルス・ノバの複雑さに対する反動で、よりシンプルな音楽がこのまれる。ながれるような旋律と耳に心地よくひびく和声が尊重され、対位法に依存しない傾向がみられた。このようなシンプルな音楽を書いた最初の大作曲家は、イギリスのジョン・ダンスタブルである。彼の優雅な様式は間もなくヨーロッパ大陸の作曲家たち、とくにフランス北西部のブルゴーニュ公の宮廷につかえる音楽家たちにとりいれられた。ブルゴーニュ楽派は、すぐれたシャンソンを生みだしたことで知られる。彼らのシャンソンでは、1声が主旋律をにない、ほかの1声ないし2声が伴奏の役割をになう。

ブルゴーニュ楽派はまた、ミサ通常文を一貫して作曲するマショーの手法をさらに発展させた。その結果、ミサ曲は長さにおいて19世紀の交響曲に匹敵する大曲ジャンルとなる。ミサ曲のカントゥス・フィルムスとしては、しばしばグレゴリオ聖歌よりもシャンソンや世俗音楽の旋律が借用された。このことは、ルネサンス社会が現世と俗事に関心を向けるようになっていったことを物語っている。

ルネサンス期の対位法音楽は、模倣技法を多用した。音楽でいう模倣とは、1つの楽想を1部ないし複数の声部が時間をおいてまねる、つまりくりかえすことをさす。この技法は14世紀末からつかわれていたが、ルネサンス期にいたって音楽を構成するための主要な要素となった。ある声部がかなり長くほかの声部をそっくりそのまま模倣しつづけると、これら2声部はカノンを形成する。ルネサンス音楽には、主要2声部が全曲にわたってカノンをなし、その間、ほかの声部が短めの模倣をくりかえす曲がある。

ルネサンス初期のもっとも多彩な作曲家は、ギヨーム・デュファイである。アルス・ノバ様式の複雑な構造のモテットを書く一方、より新しい手法で軽やかなシャンソンも書いた。ジル・バンショワも、すぐれたシャンソンをのこしている。

ブルゴーニュ楽派は15世紀半ばに衰退し、1450~1550年ごろに、現在のオランダ、ベルギー、フランス北部地域の音楽家たちがヨーロッパ音楽の中心勢力となる。彼らはその地名にちなんでネーデルラント楽派、もしくはフランドル楽派とよばれる。フランドル楽派の代表的作曲家はヨハネス・オケヘム(オケゲム)、ヤコブ・オブレヒト、ジョスカン・デ・プレ、オルランドゥス・ラッススである。

フランドル楽派は総じて、無伴奏合唱など均質な響きの音楽をこのんだ。対位法が大勢を占め、全声部に均等の重要性をになわせた。このような特徴は、ブルゴーニュ楽派のそれと対照的である。ブルゴーニュ楽派の音楽では、各声部がそれぞれ独自の音色をもち、歌が主旋律の声部をうたう場合は、ほかの2声部は別々の楽器による伴奏の声部となっていた。

フランドル楽派もブルゴーニュ楽派の伝統をひきついで、シャンソン、モテット、ミサ曲を作曲した。15世紀末~16世紀にかけて、すぐれたミサ曲が多数作曲されたが、もはやこのジャンルは作曲家にとって魅力ある挑戦対象ではなくなっていた。ミサ通常文の5つの部分を統合的に一貫して作曲する技法はすでに周知の方法となり、昔から一字一句かわらないテキストに新しい音楽をつける余地は少なかったからである。このような事情から、創作意欲をかきたてる対象として、新たにモテットが浮上する。歌詞が聖書だけでなく、さまざまなものから採られたため、作曲家はテキストから多くの楽想をえることができた。16世紀にはシャンソンも、かならずしもブルゴーニュ楽派のような素朴で魅力的な恋の歌ではなくなった。技巧をこらした対位法音楽であったり、鳥の鳴き声や街の物売りの呼び声を描写する機知にとんだ歌であったり、多様な歌になった。パリ楽派のクロダン・ド・セルミジやクレマン・ジャヌカンらが、後者の描写的シャンソンをのこしている。

後期ルネサンスの代表的作曲家に、イタリアのパレストリーナがいる。彼の作品はルネサンス音楽が理想とした様式、すなわちスムースにながれる合唱ポリフォニーの典型をしめす。イギリスのウィリアム・バード、スペインのトマス・ルイス・デ・ビクトリアも、このころの重要な作曲家としてわすれてはならない。楽譜印刷技術の発達も、音楽の発展にとって大きな意味をもった。楽譜印刷は1500年ごろ、ベネツィアの印刷職人オッタビアーノ・デイ・ペトルッチがはじめてこころみ、すぐにアントワープ、ニュルンベルク、パリ、ローマでもおこなわれるようになった。

VI. バロック時代

ルネサンス・ポリフォニーの最盛期にあたる16世紀後半、音楽の響きと構造を変革しようとする新しい動きがイタリアで生まれる。イタリア人音楽家の多くは、フランドル楽派のポリフォニー様式をこのまず、古代ギリシャ音楽の理念にしたがおうとした。彼らはそれまでの複雑な音楽をこのまず、めまぐるしい感情の対比、わかりやすい歌詞、声と器楽とのさまざまなかかわりを特徴とする音楽を書いた。このような特徴は、ことにオペラで際だつようになる。オペラは16世紀末、フィレンツェではじめて上演され、17世紀にモンテベルディの活躍で急成長した。この時代にはオペラのほかに、カンタータ、オラトリオといった新しい声楽ジャンルが出現した。

17世紀には、器楽もしだいに興隆する。多くは曲の最初から最後までが切れ目なくつづくポリフォニー音楽で、楽節や楽章といった明確な段落はなかった。こうした器楽曲には、リチェルカーレ、ファンタジア、ファンシーがある。これに対して、対照的な複数の楽節から構成された器楽曲は、カンツォーナ、ソナタとよばれ、その構造はホモフォニーである場合と、対位法である場合とがあった。

器楽曲は多くが、既存の旋律や定旋律をもちいてつくられた。「主題と変奏」はそうした音楽の一種であり、パッサカリア、シャコンヌ、コラール前奏曲もこのタイプにふくまれる。第2のタイプは、種々の舞曲をまとめた組曲であり、第3のタイプは前奏曲、トッカータ、ファンタジアなどの鍵盤楽曲の即興的な様式である。第3のタイプがいちばん最後に世にでた。

17世紀には、種々の新しいジャンルが出現したことと並行して、とくにイタリアで楽曲構造の基本概念にいくつかの変化がおきた。ソプラノ、アルト、テノール、バスの全声部に均等の役割をもたせず、作曲家はソプラノとバスの外声だけを重視し、内声部には和音を充填(じゅうてん)する役割だけをあたえるようになった。和音の配置は重要ではなく、どの音を充填するかはしばしば鍵盤奏者の即興にまかされた。低音にもとづいて即興的に和音をくわえていく方法はバッソ・コンティヌオ、通奏低音、数字つき低音などとよばれ、あらゆるタイプの音楽、とくに独唱歌曲で多くもちいられた。

後期ルネサンスの滑らかにながれるような様式も、17世紀には、さまざまな要素がするどく対立する様式に変化した。新しい様式は、ラテン語のconcertare(「拮抗(きっこう)する」の意味)から派生したコンチェルタート、コンチェルターテ、コンチェルトなどの用語でしめされた。楽器の編成、音響の密度など、音楽のあらゆるレベルにわたってコントラストがつけられ、独奏と合奏を対比させたり、テンポや音の強弱を対比させるようになる。こうした種々の対比は、前の部分と後の部分に変化をもたせたり競合させたりすることに役だち、結果としてわくわくするような刺激的な音楽様式をつくりだした。この様式は声楽にも器楽にも適用され、またあらゆる形式とジャンルの音楽にもちいられた。

17~18世紀初期の主要な作曲家には、イタリアのコレリ、アレッサンドロとドメニコのスカルラッティ親子、ビバルディ、ドイツのブクステフーデとシュッツ、イギリスのパーセル、フランスのリュリとラモーがあげられる。

17世紀末になると、調性とよばれる和声秩序が音楽を支配するようになる。和声の発展は楽曲の全体に有機的な関連をあたえ、初期バロック様式の唐突でぎごちないコントラストを滑らかにする可能性をもたらした。18世紀初期には、ほとんどの作曲家が調性の複雑な機能をマスターしていた。このころにはもはや雰囲気をめまぐるしくかえる作風がすたれ、より穏やかで統一感のある曲作りがこのまれた。このため、楽曲全体もしくは楽章全体を1つの「情緒」(アフェクトとよばれる)でつらぬく作曲法が大勢を占める。後期バロックのドイツの2大作曲家、バッハとヘンデル の作品をはじめ、当時の音楽がもつ安定感と論理性は、主として徹底した調性の制御と単一情緒の強調によるところが大きい。

VII. 前古典派、古典派時代

1720年ごろからふたたび新たな動きがおこり、音楽様式の変革がはじまる。わかい世代の音楽家はバロックの対位法があまりに厳格で知識にたよりすぎると考え、より自発的で自然な音楽表現をこのんだ。単一のアフェクトを重んじ、全曲にわたって同一の気分を維持しようとする後期バロックの理念も、彼らにとってはあまりにかたくるしかった。

バロック様式に対する反動は、フランス、ドイツ、イタリアでおこったが、そのかたちは国によってちがっていた。フランスではフランソワ・クープランを代表とするロココ様式もしくはギャラント様式(フランス語で「宮廷様式」の意味)としてあらわれる。ロココ様式はホモフォニーの音楽構成を重視し、旋律と和音による伴奏という音楽形態をとった。その旋律は波状音をつくるトリルなどで装飾がほどこされた。バロックのフーガのような途切れのない音楽とは対照的に、ロココ様式の曲には別々のフレーズをいくつかくみあわせた舞曲風の作品が多い。短い標題音楽が典型で、鳥や風車など音楽以外のイメージを描写している。楽器としてはクラブサン(チェンバロのフランス語)がもっとも人気をあつめ、多数のクラブサン組曲が書かれた。

北ドイツにおこった前古典派様式は、感情過多様式とよばれる。軽快でみやびやかなフランスのロココ様式とはちがい、ドイツの前古典派は喜怒哀楽の多彩な人間感情を幅ひろく表現した。曲の規模もフランスより大きく、曲の統一をはかるために多様な技法が駆使され、音楽以外のイメージの助けはうけなかった。このためドイツ前古典派は、ソナタ形式のような抽象的な音楽形式と、協奏曲、ソナタ、交響曲といった大規模な器楽ジャンルの発展に重要な役割をはたすことになる。

イタリアの前古典派様式は、特別の呼称をもたない。その理由は、前代の音楽とそれほど大きな違いをもたなかったからだと考えられる。しかしイタリア人作曲家は、新しいジャンル、とりわけ交響曲の発展に多大な貢献をした。しばしばシンフォニアとよばれたイタリア・オペラの序曲は、ふつうオペラ本体とは音楽的にも演劇的にも関連性がなく、ときにはそれだけが単独でコンサートで演奏された。そしてついには序曲と同じ音楽構造の器楽曲が独立した器楽曲として書かれるようになる。この音楽形式は急-緩-急のテンポをとる3楽章で構成され、各楽章内での楽想の展開の仕方は、のちにソナタ形式とよばれるようになるパターンにしたがっている。

イタリア人作曲家がオペラの序曲ではない単独のシンフォニアを確立すると、ドイツの作曲家たちはすぐにこのアイデアをうけついで数々の独創的な工夫をくわえた。ドイツにおける前古典派の中心地は、ベルリン、マンハイム、ウィーンであり、彼らの活動の結果、音楽形式、ジャンル、表現手段とが細分化される。その顕著なものに室内楽曲と交響曲がある。両者は同じような音楽形式(構造)でありながら、形態の違いによって区別される。つまり室内楽曲は1楽器が1声部を担当し、交響曲は複数の楽器が1声部を担当する楽曲をさす。室内楽曲の中でも弦楽四重奏曲、弦楽三重奏曲、バイオリンの伴奏をともなう鍵盤楽器用ソナタなど、編成に応じてジャンルがさらに細分化された。オーケストラ用の楽曲にも、交響曲ばかりでなく、独奏楽器とオーケストラのための協奏曲などがある。

交響曲、ソナタ、協奏曲、弦楽四重奏曲は、どれも音楽形式(構造)は基本的に同じである。たいてい3~4楽章で構成され、そのうちの1楽章ないしは複数の楽章がソナタ形式による。18世紀半ばに登場したソナタ形式は、バロック時代末期に発展した調性理論が洗練された結果として生みだされたもので、複雑な和声構造をつくりだした。ソナタ形式の基本は、主調にはじまり、そこからいったんはなれ、ふたたび主調へもどる調構造である。この調の関係と、主題の提示とその展開、再現という構成法が巧みに組み合わされている。

18世紀音楽の最盛期は、ウィーン古典派とよばれる作曲家たちが活躍した世紀末である。ウィーン古典派の代表的作曲家は、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンであった。

オペラも18世紀に多くの変化をとげた。発祥の地イタリアでは、音楽つき演劇という当初の性格をほとんど失い、歌手の技巧を発揮させるアリアの集合体になった。しかしヨーロッパ各地の作曲家には、器楽による間奏や伴奏にふたたび重要な役割をあたえようとする者がいた。彼らのオペラでは合唱が重視され、さまざまな形式と様式のアリアが導入された。また、レチタティーボ(叙唱)、アリア、二重唱、合唱、器楽の部分を統合して一場面をつくる試みもおこなわれた。オペラ改革の重要人物はバイエルン出身のグルックで、1764~79年にウィーンとパリで代表作を作曲した。やがてモーツァルトは、古典派オペラの金字塔をうちたてる。彼の舞台作品では、声と楽器の音すべてが劇の進展と登場人物の性格描写に貢献しており、無駄がいっさいない。

VIII. ロマン派時代

19世紀初めのヨーロッパ音楽界は、あいかわらずハイドン、モーツァルト、ベートーベンのウィーン古典派様式に支配されていた。この様式は、当時の音楽がもとめていた理念をじゅうぶん実現できたことから、ほとんどすべての作曲家がこの様式を下敷きにして作曲をおこなった。そのため、この形式は二級の作曲家の音楽のお手本になりさがった感があった。それに対する反発もあって、1810~20年に新しい方向を模索する気運が生じた。

野心的な作曲家は古典派の明晰(めいせき)な形式概念にしたがわなくなる。その代わりに、衝動的感情や目新しさに価値をおくようになる。具体的には、楽曲全体の和声進行に影響をおよぼすものとはいえないながらも、異例の和音進行を導入したり、ある楽器の音色に特別の魅力をおぼえれば、交響曲全体のバランスをそこなうほど長い独奏パッセージをその楽器のためにもうけたりすることがおこなわれた。このような試みを通じて、19世紀音楽は古典派と対照的なロマン主義的な芸術観をしめしはじめる。ロマン主義美学は、ドイツと中央ヨーロッパでとくに尊重された。音楽におけるロマン主義運動の先駆的な作品に、オーストリアのシューベルトによる器楽作品、ドイツのウェーバーによるピアノ曲とオペラがあげられる。

ロマン派の作曲家は、文学、絵画など音楽以外のものにしばしば題材をもとめた。こうして音楽以外に構想をえた音楽、すなわち標題音楽が各地で開拓され、交響詩の発展をみちびく。交響詩のジャンルではベルリオーズとリストが活躍した。芸術歌曲は18~19世紀の文学詩をテキストとして、その詩のイメージと雰囲気を音楽で表現した。19世紀にはシューベルト、シューマン、ブラームス、ウォルフ、世紀末のリヒャルト・シュトラウスらがドイツの独唱用歌曲リートの名作を多数のこした。

19世紀の芸術理念をもっとも顕著にしたジャンルはオペラである。この時代のオペラには、音楽のほか美術、文学をはじめ、あらゆるジャンルの芸術がむすびつけられ、舞台上に壮麗なスペクタクルを現出し、心に強くうったえかけるような情感をみなぎらせ、超人的な歌唱技巧をきかせる場をつくりだした。フランスでは、スポンティーニとマイヤーベーアがグランド・オペラとよばれる様式を確立し、オッフェンバックが「オペラ・ブッファ」とよばれる喜歌劇の様式を発展させた。フランスの重要なオペラ作曲家には、ほかにグノーとビゼーがいる。

19世紀前半のイタリアでは、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベルリーニが18世紀のうつくしく滑らかなベル・カント唱法の伝統を継承していたが、世紀後半にはベルディがベル・カントをひかえて人間関係のドラマを鋭角的に表現した。世紀末のプッチーニは、感傷的な愛やはげしい人間感情に焦点をあてた。ドイツでは、ワーグナーが「楽劇」とよばれる様式を創始する。楽劇では劇のあらゆる要素がドラマの中心主題たる哲学的テーマに収斂(しゅうれん)させられる。人間性を重視したベルディとは対照的に、ワーグナーはしばしば伝説や神話に題材をとり、贖罪、魂の救済といった哲学的概念を主題にした。ワーグナーが開発した手法に人物、事物、概念などを特定の旋律や和声をもちいて象徴的にしめすライトモティーフ(示導動機)の技法がある。ライトモティーフは、それが象徴する人物や事物、あるいは概念がドラマの進行にかかわるたびに、歌やオーケストラでくりかえし奏される。

具象性のない純音楽の伝統は、19世紀にも交響曲と室内楽曲によって維持された。これらのジャンルでは、シューベルト、シューマン、ブラームス、メンデルスゾーン、ブルックナーの作品が重要である。ロシアのチャイコフスキーも、オペラや標題音楽とならんで交響曲、室内楽曲を書いた。ポーランドのショパンは、標題音楽ではないものの、自由に形式をつくりだしてピアノのための音楽を書きのこした。

19世紀にはどのジャンルでも、表現の独自性に高い価値がおかれた。こうした価値観は、多くの個人的な音楽様式をみちびきだしただけでなく、演奏者や指揮者の名人芸的な技巧を称賛する気運を生んだ。こうしたビルトゥオーソとしては、ピアニストとしてのリストや、イタリアのバイオリニスト、パガニーニが有名である。また、オーストリアの指揮者・作曲家のマーラーは、実生活と密接にむすびついた交響曲を作曲した。

19世紀末までにロマン主義様式は、いくつかの点でそれまでの音楽語法を変質させた。まず、個性的な和音進行をはかる傾向が高じたあげく、調性体系に崩壊をきたし、ワーグナーをはじめとする作曲家たちが、半音階や非和声音(その調にふくまれない音)を大量に使用する和声様式を多用するようになる。また、民族音楽の語法が大幅にとりいれられ、ロシアのグリンカ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、チェコのドボルザークとスメタナ、ノルウェーのグリーグ、さらにはのちの時代のゴットショーク(アメリカ)、ニールセン(デンマーク)、シベリウス(フィンランド)、ファリャ(スペイン)が民族音楽の要素を利用した。

民族音楽の語法は、20世紀初頭に再発見されたほかの音楽語法とあいまって、過去の和声概念やリズムの概念を芸術音楽の中に復活させた。19世紀にはじまった音楽史の体系的研究も、同様の効果をもたらした。しかし一方では調性の解体とともに、和声進行ではなく、響きの密度、緊張と弛緩(しかん)によって曲全体の統一をはかる楽曲もしだいにふえる。ドビュッシーとラベルが開拓したロマン派末期のフランス印象派音楽は、音の響きそのものを音楽の構成原理にしていることが特徴である。また、プーランク、サティなどのフランス人作曲家は、風刺的小品に才能を発揮した。

IX. 20世紀の音楽

個性と個人的感情の表現を重視したロマン派の価値観は、20世紀においていっそう強固になる。それは、社会状況の反映でもあった。つまり20世紀になって、従来より幅ひろい階層と地域の人々が音楽をまなび、作曲能力を開発できるようになる。その結果、きわめて広範な趣向と技法が現代音楽の特色となった。ラジオやレコードは、南アメリカや極東の音楽を世界中の音楽家のもとへはこぶようになる。さらにはメディアの発達で情報の伝達がスピードアップし、だれもが新しいできごとをほとんどリアルタイムで知ることが可能になった。こうした状況を背景に、独創性がかつてなく重視され、20世紀音楽を総括した場合、多様性と急速な変化が顕著な特徴として指摘されることになる。

20世紀に重要な役割をはたしたいくつかの様式は、それぞれ和声的特性にちなんだ名称がつけられている。半音階主義は、20世紀になってもあいかわらずもちいられつづけた。やがて半音階主義が極端化した結果、1900年代初めには調性を完全に放棄して無調主義(無調性)をとる音楽家があらわれた。その代表が、オーストリアのシェーンベルクである。

シェーンベルクは、1920年代初頭に無調音楽を書くための12音技法を考案した。この技法では、オクターブを12の音に分割し、任意の音列にならべる。作曲者は、この音列もしくはそのバリエーションをまもりながら作曲する。同じ音列をたんに旋律として反復するだけでなく、単調におちいることをさけるため、連続する数音を結合して和音を形成する工夫もなされる。シェーンベルクが12音技法を考案したのは、無意識のうちに調性にもとづくパターンへまいもどってしまうことを予防し、さらには一貫した手法をもちいて大規模な無調音楽を作曲できるようにするためであった。彼の技法をとりいれた作曲家は当初、弟子のベルクとウェーベルンだけだったが、30~40年後には20世紀の主要な作曲家のほとんどが、12音技法をとりいれるまでになった。

20世紀音楽の和声様式には、ほかにも複数の調性を同時に使用する多調主義、ルネサンス以前の旋法や音階を使用するモダリティ(旋法主義)などがある。ハンガリーのバルトークは、母国の古い民族音楽の旋法を自作の和声様式の基礎にした。

今までにあげた様式とは別のタイプの20世紀音楽に、微分音音楽がある。これも和声概念にもとづく音楽ではあるが、オクターブを通常の12音よりもさらに細かく分割している。したがって微分音は、標準的な西洋音階の音にくらべると、ピッチがわずかに高かったり、低かったりする。微分音楽

1920年代に発展した新古典主義は、和声だけでなく、さまざまな特徴を包括する様式である。新古典主義は、音楽のあらゆる要素が形式を明確にするために貢献すべきという、古典派の理念への復帰を旗印とした点が最大の特徴である。バロック期と古典期の形式上の枠組みを使用しながら、半音階主義を大幅にとりいれ、修正をくわえた調性をもちいている。代表的な作曲家は、ストラビンスキーとドイツ生まれのヒンデミットであるが、ロシアのプロコフィエフとショスタコービチもこの種の音楽を書いた。エリオット・カーター、コープランド、ウォルター・ピストン、バージル・トムソンなど、アメリカ人の中にも、パリに留学してナディア・ブーランジェの指導をうけたことから新古典主義を信奉した作曲家がいる。

1948年、電気技師で作曲家のピエール・シェフェールほか数人のパリの音楽家が、街路の騒音などの現実の音を録音して、さまざまな形にくみあわせる実験をはじめた。こうして合成された音楽は、楽器がつくりだす抽象的で人工的な楽音ではなく、実生活の中の音で構成されていることから、やがてミュジーク・コンクレート(具体音楽)とよばれる。ミュジーク・コンクレートは、電子音楽時代の幕をあけた。コンピューターなどの電子機器が音をつくりだし、変形し、それをいく通りにもくみあわせるために使用された。1960年代後半には、作曲のための電子機器をそなえたスタジオが世界各地に誕生する。

19世紀まで貴族ないし国家の保護のもとにあったオペラは、20世紀になって人件費の高騰と助成の削減にくるしむこととなる。しかし、あいかわらず魅力的なジャンルであったため、20世紀の主要な作曲家でオペラを一曲も書かなかった者はわずかである。リヒャルト・シュトラウス、ヘンツェ、ブリテンらは、ひじょうに人気をよぶオペラを書いた。それまで舞踊音楽に目をむけた作曲家はチャイコフスキーだけで、ほとんどの大作曲家は無視してきたが、20世紀にはプロコフィエフ、ラベル、ストラビンスキーなどの作曲家がこのジャンルに注目した。

20世紀音楽は一見、目移りするほど種々雑多な技法と様式をもつように感じさせるが、1950年以後の進歩的音楽にひとつの共通点がみられるようになった。すなわち、音の響きを重視し、音質、テクスチュア(構成)、密度、音の長さを大事にする。こうして、西洋音楽史がはじまって以来はじめて、音の響きという要素が旋律、和声などの要素をしのぐ重要性をもつにいたった。旋律は楽曲から完全に姿を消し、和声は音の複合体の一構成要素としてあつかわれる。こうした曲も、今日ではめずらしくない。