| 検索ビュー | 社会心理学 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
社会心理学は、いろいろな場面における個人のふるまい方や、個人のいだくさまざまな観念、価値観、思考様式などが、その個人の参加している多様な集団や、その個人の生きる社会・文化によってどのように規定されているか、その逆に、個人の行動や思考のあり方が、集団や社会・文化の動向にどのような影響をおよぼしているかを解明する学問である。つまり、個人、集団、社会・文化のそれぞれが極となる3極構造の相互関係を、主として個人の行動や認知、思考様式、価値観などを中心に解明しようとする学問である。→ 心理学
| II. | 実生活とのかかわり |
たとえば、集団は個人によって構成されるものでありながら、個人の寄せ集め以上の力や機能をもち、それらがその集団のメンバーである個人にさまざまな影響をおよぼしている。大きな会社組織を考えてみれば、その集団の一員である個人は、その組織の規則や役割分担をまもってふるまわねばならず、そこにはたらいている集団規範は、個人の力ではうごかすことのできない大きな力としてその個人の行動を律している。個人の側からみるかぎり、個人の力は集団の大きな力の前ではたんなる歯車のひとつにすぎないのである。
しかし、現実の会社組織に属する個人は、集団規範にしばられてあくせくしているばかりではない。そこには上司と部下、同僚というような複雑な人間関係があり、評価する・評価されるというその対人関係力学の中で、個人は同僚とともに「わが社意識」をはぐくんだり、会社の発展をのぞんだり、同僚との競争をバネに立身出世を夢みたりする。基本的にはその会社の生産性向上に寄与する働きがもとめられながらも、個人の意識の中では、ほかの成員との関係において心理的な満足をえられるかどうかが、その集団に所属しつづけるかどうかをかなりの程度規定している。これを会社という集団の側からながめれば、各個人の働きの合力としてその会社の業績がきまるのであるから、その限りでは個人の動向はけっして無視できない。個人の能力を最大限にひきだすことが、会社という集団の発展に不可欠なのであってみれば、各個人がその集団に所属することを喜びとするような方向に集団をもっていくことも、会社経営の重要な課題になる。
このような集団力学についての考察が社会心理学のひとつの領域をなしている。これについては、のちに「集団と個人」というテーマでくわしくみることにしよう。
| 1. | 車がほしいという心理 |
次に、「車がほしい」という個人の欲求を社会心理学的に考えてみよう。今日の日本では、車を所有したりそれをのりまわしたりすることは、だれしも当然のことと考えている。若者たちは、「車がほしい」という考えはだれからそそのかされたものでもなく、それはまさに自分がほしいと思ったのだというだろう。若者であれば皆そのように考えるし、「それは常識だ」と若者はいうかもしれない。しかし同じ日本でも、今から40年前を考えてみれば、当時の若者の大半は車にあこがれはもっていても、自分がそれを所有するなどとは思ってもみなかったし、したがって「ほしい」という欲求もまず生じなかった。そうしてみると、「ほしい」という個人の欲求は、この40年間の日本の社会的、文化的な変動の中で、しだいに社会や文化によって形づくられてきたものだということになる。
自動車産業の業績をみると、この40年間、ずっと右肩あがりの発展をとげてきたことがわかる。しかしそれは、個人の購買力や購買意欲の向上と密接につながっている。そしてこの購買意欲の向上は、生活水準全体の向上の結果ばかりでなく、個人の購買意欲を刺激する巧みな宣伝によって、知人や同僚がもてば自分ももたずにはおれないような、横並び志向がはたらいた結果でもある。女性の社会的自立欲求、最近のシングル志向、高学歴志向など、最近の社会的動向と個人の欲求との関係も同様で、個人のいだくこうしたいという欲求は、「だれでもないこの私がそう欲するのだ」と個人に意識されておりながら、実際には近年の大きな社会・文化的変動の中で、あるときにはオピニオン・リーダーたちの言説が社会的な影響力をもつことによって、あるときには毛細管現象のような微小な動きが蓄積されることによって、個人の意識がそのように方向づけられ、規定されるようになったという面を無視できない。
ここには、社会・文化的に形づくられた共同主観(常識)が個人の主観(意識や欲求の持ち方)を規定していくという、社会心理の重要なテーマの一端をみとめることができる。これについては以下に「社会的認知」や「社会的影響」という項目のもとにくわしくみてみよう。
| 2. | 社会的態度 |
多様な価値観が存在する日本では、ある社会的事象に対して個人のとる態度もまた多様である。しかしここでも、各個人が思い思いにある態度をとっているようにみえながら、実際にはそれは社会的に規定されている場合が多い。社会心理学ではこれを「社会的態度」とよんでいる。たとえばある人は、結婚するからには豪華な披露宴をと考え、そのような態度のもとに、招待する大勢の人をきめ、豪華な披露宴の手はずをととのえるだろう。ところが、人によってはそのような華美な披露宴は無意味と考え、ほんの内輪の人だけを招待し、会費制のつつましい披露宴にとどめるかもしれない。まあ親のすることだからという人もいれば、これは自分のことだから親には口出しさせないという人もいるだろう。結婚の披露という社会的な儀式にかかわる点では共通しても、そこで個人がどのような態度をとるかは、たしかに人によってことなり、その違いはつまるところ個人の選択の違いであるかのようにみえる。
しかしながら、どのような結婚披露宴を考えるかの態度の違いは、その個人が社会的な事象に対して進歩的な態度をとるか保守的な態度をとるかという、より一般的な社会的態度に左右されることがしばしばである。つまり、伝統的な価値観遵守の社会的態度を保有する人は、結婚披露宴にかぎらず、家問題や近所付き合いはもちろん、投票行動などの社会的事象に対しても、たいていは保守的な価値観にそった選択をおこなうことが予想される。逆に進歩的な価値観をよしとする社会的態度の人は、ほかのもろもろの社会的事象に対しても、進歩的な選択をおこなう傾向にある。このように、ある人の社会的態度は、多様な社会的事象の認知の仕方、そこにおける行動の仕方を枠づけるものなのである。
個人の社会的態度は、社会的事象の判断や認知の仕方にどのような影響をおよぼすのか、どのようにして社会的態度は形成され変容するのか、このような問題をあつかうのが社会心理学における「社会的態度」の領域である。
最後に、先の阪神・淡路大震災のような大災害時には、不安や恐怖を背景に、「強い余震がくる」とか「水道に赤痢菌がまじっていてのむと危険だ」というような流言が生じやすい。流言は個人の口から口へと、いわゆる口コミをとおして伝播(でんぱ)するものでありながら、つまり流言の発生とその膨張に各個人がひと役買っていながら、個人はそのマス(集合体)の中に埋没し、マスの動きに翻弄(ほんろう)される。デマや扇動におどらされる事態、流行にふりまわされる事態、地滑り的に生じる選挙動向なども、それにまきこまれた個人には、自分の意志でそのような行動をとったかのように思われながら、実際にはマスとして生じた行動や動向にただまきこまれ、ながされたにすぎない場合がしばしばある。マスコミはこのマスの動向を促進するようにはたらく場合もあれば、沈静化するようにはたらく場合もあるだろう。このような事態は「集合行動」とよばれ、これも社会心理学の重要な領域のひとつとなっている。
| 3. | 合意形成 |
社会の中に一員として生きるわれわれは、このように社会や集団の側から圧倒的な影響をうけながら、物事を認知し、判断し、対人関係を調整し、行動している。そのことはふだんの生活の中では気づかれにくいが、非日常的な事態においてはっきりとうかびあがってくることがある。一例として、阪神・淡路大地震の後に生じたマンションの建て替えに関する合意形成の問題を考えてみよう。それまではたんなる近所付き合いをするだけにすぎなかったあるマンションの住民たちが、建て替え賛成派と修繕派にまっぷたつにわかれるという事態に直面する。この場合、その合意形成はどのようにしてなされるのだろうか。大局的にみれば、個々の住民の価値観と互いの利害がぶつかり摩擦をおこしながらも、いずれかの合意点にむかって最終的には収斂(しゅうれん)していくとみることができる。
しかしその実際の過程には、リーダー的な存在の出現、両派による説得的コミュニケーション、両派の反発、和解、等々の具体的な対人関係力学がはたらき、その中で各個人の認知の変化、態度の変化が生じ、ようやく最終合意にたどりつくのである。この場合、個人は個人でありながら、自分勝手にふるまえないという点ではたんなる個人ではない。マスコミ(→ マス・コミュニケーション)をはじめ、周囲からの影響、自身の価値観や社会的態度、それらが赤裸々な人間関係にむすびついて個人を翻弄(ほんろう)する。ここに社会心理学の問題が端的にあらわれているといっていいだろう。要するに、冒頭にしめした個人、集団、社会・文化の3極の相互的な関係を解明することが社会心理学の課題なのである。以下、社会心理学の各領域ごとに簡単な概観をこころみよう。
| III. | 集団と個人 |
われわれはすでに幼児のころから保育所や幼稚園などの集団に参加し、以後、学校、部活動、会社、近所の寄合など、さまざまな集団に属してくらすことになる。同好の士がよりあつまって同好会のようなサークル(集団)をつくる場合もあるが、たいていはすでにある集団に個人が参加するという形をとるから、まずもって集団参加が問題になる。
| 1. | 集団参加 |
人が集団に参加するのは、軍隊のようなものを別にすれば、それによってなんらかの利益が個人にえられるからである。これを個人の側からみれば、その集団が自らの価値実現に関して魅力があるからだということになる。人が有名大企業に就職することをめざすのは、そこに所属することによって経済的な豊かさ、生活の安定、社会的名声をえることができると思うからである。しかし、少し視点をかえれば、それと引き替えに判でおしたようなサラリーマンの生活を強いられるという短所もみとめざるをえない。それを不満に思う人は、もっと自分の活躍の場をもとめてベンチャー企業を志向するだろう。あるいは、趣味のサークルに参加するのと、留学をめざしてセカンド・スクールに参加するのとでは、めざしているものが明らかに相違する。してみると、個人がどのような集団に参加するかは、その個人が当面どのような価値実現をはかろうとしているかに規定されるとみることができる。
| 2. | 集団規範と集団圧力 |
ほとんどの集団には、こうすべき、こうしてはならないといった集団の成員に対する規律や規範がそなわっており、集団に参加した個人はこの規範を遵守(じゅんしゅ)することがもとめられる。規範は明文化されている場合もあれば、されていない場合もあり、参加の時点でそれへの誓約をもとめられる場合もある。規範の遵守は規範逸脱者への制裁や排除・除名と対になっているから、当然ながらその集団参加の動機付けが強い者ほどそれを遵守する傾向が強く、その逆もいえる。集団の規範は集団を存続させ、成員を凝集させる力となるものであるが、ときとして個人の利益とぶつかることもある。そのようなとき、個人にとって集団規範はよそよそしく自分を疎外する力にみえてくることだろう。
一般に、集団はその成員に対して同質性をもとめるような斉一化の力をおよぼしてくる。企業や学校における制服の制定などがそのよい例である。この斉一化の力は規範的な力をおびているから、個人にはそれがひとつの集団圧力として経験され、それに対抗するのには困難をともなうことが多い。とくに全体が斉一的な判断をしめす場合に、個人がひとりだけほかとことなる判断や意見をもったり行動したりすることは困難である。このことは、のちにしめすアッシュの集団圧力に関する実験結果にみることができる。
| 3. | 地位と役割 |
一般に集団は、地位と役割に関して構造化されているのがふつうである。会社組織でいえば社長を筆頭に、部長、課長、係長、主任、平社員の地位にわかれ、それぞれの地位にはそれにふさわしい役割期待がそなわり、その地位にある者はその役割期待にそった行動をとることがもとめられる。しかし、地位や役割は固定的ではなく年月とともに変動する可能性がある。それゆえ個人も、ただあたえられた役割をこなしているだけにあまんじるわけにはいかない。「でる杭(くい)はうたれる」という集団力学がある一方で、ほかの成員との比較過程がはたらき、その結果、昇進をめぐる競争が生じ、業績次第では「抜擢(ばってき)人事」もおこりえる。しかも、このような地位と役割をめぐる集団力学には、重層的なリーダー・フォロワー(上司・部下)の関係がともない、リーダーがどのようなリーダーシップを発揮するかによって、集団成員のまとまり(凝集性)や生産性が大きくことなってくる。
| 4. | 集団の生産性と凝集性 |
集団は、その成員の地位と役割に応じた活動をとおして、一般になんらかの目標達成(生産性の向上)をめざす。病院組織であれば患者の治療や救命を、会社組織であれば利潤追求を、プロ野球のチームであれば優勝をめざすわけである。集団はこうした集団目標の達成にむけてその生産性を高めようとする働きをもつが、それと同時にその集団の各成員が集団としてまとまり(凝集性)をたもち、高い士気を互いに共有する方向にもおのずと機能する。この目標達成(生産性向上)と凝集性という集団のもつ2大機能は、ときには「チーム一丸となって」という高い凝集性がそのまま高い生産性にむすびつくというように、よい循環においてむすびつく場合もあるが、生産性と凝集性が拮抗(きっこう)する場合も少なくない。生産性一辺倒で馬車馬のような働きがもとめられ、上から命令・監督されるだけでは、そのうちに成員はしだいにやる気をうしなってまとまりをかくようになり、そうなると生産性も当然低下するだろう。ここに集団におけるリーダーの役割が生じる。
| 5. | リーダーシップ |
集団の2大機能に応じて、リーダーにもその機能実現にむけてのリーダーシップがもとめられる。つまり目標達成(生産性)に関しては、高い計画性、実行力、判断力、知識、技能などであり、凝集性に関しては、高い統率力、豊かな人間性(人間的魅力)、部下を思いやる共感性や包容力などである。ひとりのリーダーがこの両面をあわせもつことが理想であることはいうまでもない。しかし集団としてみれば、集団自体がこの2つのリーダーシップをもっていさえすればよいことになる。ここに、複数のリーダーによって2つのリーダーシップを分担掌握するという現代的傾向が生まれてくる。従来は、目標達成機能を重視したリーダーがイメージされやすかったが、今日ではそれにくわえて、集団維持機能(凝集性)重視のリーダーの重要性も認識されるようになってきた。実際、集団はさまざまな個性と人格をもった個人の集まりであるから、その成員間の人間関係のよしあし、ひいてはまとまりのよしあしは、集団の生産性に大きく影響する。それゆえ後者の集団維持機能リーダーは、成員間の協同と競争の原理にうったえながらも、それぞれの個性や適性をみきわめた人事配置やコミュニケーションのネットワークづくりをおこない、集団内の凝集性を高める方向にその指導性を発揮することがもとめられる。
このように、人はさまざまな集団に所属しながら、そこでの複雑な集団力学(グループ・ダイナミックス)にまきこまれて生きているのである。
| IV. | 社会的認知 |
われわれは、尊敬の念など好意的感情をいだいている人の振る舞いは、たとえそれがふつうの人の振る舞いよりもゆっくりしたテンポであっても、かえって威厳のある気品にみちた振る舞いとうけとめやすい。逆に否定的感情をいだいている人の振る舞いの場合には、それが同じようなゆっくりしたテンポであっても、のろくさく、いらいらさせるものとうけとめやすい。つまり、われわれは行為そのものを認知するというよりも、ある社会的な枠組みないし「色眼鏡」をとおしてそれを認知する傾向にあるということである。社会心理学では、これらの問題領域はかつては「社会的知覚・判断」という文脈で理解されることが多かったが、近年の認知科学の発展とともに、今日では「社会的認知」という文脈で理解されるようになってきた。以下にこの領域を概観してみよう。
| 1. | 対人認知 |
アッシュによれば、被験者に「知的で勤勉で決断力のあるあたたかい人」と「知的で勤勉で決断力のあるつめたい人」をそれぞれイメージしてもらうとき、2人の人物の違いは「あたたかい・つめたい」の違いでしかないのに、実際には前者は「かしこい人」、後者は「抜け目のない人」と、被験者にはかなりちがったイメージでうけとめられるという。この種の研究は印象形成とよばれ、対人認知研究の先駆けをなすものであった。近年では、その人をどのような人物であると認知するかという対人認知の問題は、スキーマ(知識の枠組み)やヒューリスティクスという認知心理学の基本概念にてらしてふたたびとりあげられるようになってきている。
ある人が「あたたかい人」だといわれるとき、われわれは「あたたかい人」といわれる人物についての既得のスキーマをよびおこし(これは知識や体験にもとづいて形づくられたものである)、それを枠組みにしてその人を認知したり判断したりしやすい。同様のスキーマとしては、「スポーツマン・タイプ」「学者タイプ」「芸術家タイプ」などがある。これらのスキーマが各人に共有されていることによって、このスキーマを喚起するような人物評があたえられれば、われわれは比較的似かよった対人印象を形成できるということになる。こうしたスキーマは、人物評に関するものにとどまらない。自己概念を構成している「依存的・独立的」「社交的・内閉的」といった次元に関する知識(自己スキーマ)も、それを所有していれば、なんらかの対象があたえられたときにそれに関連した情報がすばやく有効に処理できることになる。
これに近いのは教師、医者、看護師、警察官、バスの運転手など種々の職業や社会的役割に関するスキーマで、役割スキーマまたは役割ステレオタイプとよばれる。これも獲得された知識にもとづくもので、これをもつことによって対象となる人物の職業が特定されれば、このスキーマが作動し、それが枠組みになって対人認知がなされやすくなる。
さらに、結婚披露宴や葬式、あるいはレストランでの食事場面など、社交の場にはさまざまなひとつながりの型にはまった行動連鎖があり、これについての知識を事象スキーマないしスクリプトとよぶ。たとえば結婚披露宴では、式場に到着してから、あいさつ→お祝い渡し→記帳→着席→仲人あいさつ→来賓祝辞、等々の定型的連鎖があり、レストランでは、テーブルへの案内→メニューの受け取り→食事内容の決定→オーダー→ナプキン→前菜、等々の定型的な連鎖がある。こうした事象スキーマ(スクリプト)をもっていることによって、われわれは人がその場でどのようにふるまうのかほぼ予測することができ、当該人物に関する認知をすばやくおこなうことができる。
このように、社会的に獲得された知識としてのスキーマが枠組みないしフィルターとしてはたらき、さらにこれら抽象度のことなるスキーマをどのように重みづけて作動させるかによって、その個人をどのような人物と認知するかが方向づけられる。
| 2. | 社会的判断と原因帰属 |
S.ティボーとH.リーケンによれば、ある人が献血をうったえ、ひとりの紳士とわかいひとりの学生がそれに応じてくれたとき、献血をうったえた人は、結果がそのようになった理由を、紳士の場合には自分の説得力よりもその紳士の人柄のよさに帰属させ、わかい学生の場合には自分の説得力に帰属させる傾向にあったという。この簡単な実験には、相手の社会的地位に関する社会的判断(認知)と原因帰属という2つの問題がふくまれている。前者については、「紳士とはこういうもの」「学生とはこういうもの」というもっともに思える認知の枠組み(先のスキーマと同様の枠組み)がはたらいていたと考えられる。これは具体的個人のもつ多様な情報をすべて考慮にいれずに、簡略な手掛かり情報にもとづいて判断をくだす方略である。これはいつも成功するとはかぎらないが、経験則としては成功する確率の高い方略だといえる。認知心理学ではこうした方略を「ヒューリスティクス」とよんでいるが、社会心理学においても、社会的判断や認知はこのヒューリスティクスにもとづいてなされていると考えられるようになった。
後者の原因帰属とは、ある結果がえられたときに、個人がそのような結果がえられた理由を自分なりに説明しようとこころみることをいうもので、ハイダーが最初に提唱した。文字どおりには、ある結果になったその原因をなにかに帰属させるということであるが、帰属する本人に即して考えれば、自分なりの「納得の様式」をつくる試みであるといってもよい。先の例では、説得の成功を、紳士の場合には紳士の人柄という説得者の自己の外部に帰属させ、学生の場合には自分の説得力という説得者自身の内部に帰属させているのに注意しよう。
ハイダーによれば、成功と失敗に関する原因帰属は、行為主体の能力、課題の難易度、努力、運の4つがおもな要因になるという。ワイナーはハイダーのこの考えを基礎に、原因の所在の次元として内的・外的を考え、また原因の安定性の次元として安定・不安定を考えて、これらの次元をくみあわせた。つまり、能力は内的で安定した原因、課題の難易度は外的で安定した原因、努力は内的で不安定な原因、運は外的で不安定な原因である。ワイナーによれば、人は成功や失敗の原因をどの次元に帰属させるかによって、その時にどのような感情を経験するか、将来において同じような事態にでくわしたときにどのような予測や期待をもつかがことなってくるという。
たとえば、成功を内的要因に帰属できれば喜びは大きいだろうし、外的要因に帰属せざるをえないとすれば、喜びはたいしたものではなくなるだろう。失敗を運がわるかったとか、課題がむずかしすぎてだれにもできなかったなどと、外的要因に帰属できればその深刻さはへるが、もしもそれを自分の能力など内的要因に帰属せざるをえないとすれば、その失敗は深刻なものとなるだろうし、同じような事態に直面すれば、また失敗すると予想せざるをえなくなる。それゆえにまた、成功や失敗の原因が明確でない場合には、成功は内的要因に、失敗は外的要因に帰属されやすいということにもなる。
こうしてみると、社会的事象の判断や認知は、スキーマやヒューリスティクスなど既得の社会的=認知的な枠組みやフィルターを介し、原因帰属など、判断主体の内部で認知的な斉合性がえられるようなかたちでおこなわれるものだということがわかる。
→ 帰属過程:帰属理論
| 3. | 対人関係の認知 |
R.タジウリによれば、対人関係の理解には、人がだれから選択され、だれから排斥されているかの事実に関する知識ばかりでなく、むしろその人がそれをどのように認知しているかについての知識が重要であるという。またT.ニューカムによれば、AとBという2者関係において、AのBに対する魅力の認知は、事象Xについての認知や態度が両者において一致するか不一致になるかによって、魅力がます方向に変化したり、魅力がへる方向に変化したりするという。事象Xについての認知や態度が不一致であるときは、A–B–Xの系が緊張をはらんで不安定だということである。もちろん、その程度は、AにとってBや事象Xがどの程度の重要度をもっているかに依存するが、ともかくその系全体としては緊張を解消する方向に変化することが予想され、そこにAのBに対する魅力の認知の変化もふくまれてくるだろう。
これに類似した考えは、ハイダーのP–O–Xモデルによってもしめされる。ハイダーによれば、人Pが他人Oとある事象Xについて関係をもつとき、P–O、P–X、O–Xのそれぞれの関係の符号(たとえば、PとOが恋人同士であれば、その関係はプラス、Xがクラシック音楽でPの趣味がそれだとすればP–Xはプラス、Oはジャズが趣味でクラシックは趣味でないとすれば、O–Xはマイナス)の積がプラスになるように、P–O–Xの関係が変化する傾向にあるという。今の例でいえば、3つの関係の符号の積はマイナスであるから、たとえばOがXをすきになることによって、あるいはPがOをきらいになることによって、全体の積がプラスになるように、3項の関係に変化が生じやすいことが予想される。
以上のべてきたように、社会的認知は、対人認知、社会的事象についての認知や判断、対人関係の認知など、われわれの日常生活におけるほとんどすべての物事や事象の認知にかかわる幅ひろい領域を構成し、社会心理学の重要な研究テーマになっている。
| V. | 社会的態度 |
社会的態度とは、ある対象や事象に対して、個人がもつ認知(知識、信念、価値観をふくむ)、感情、行動傾向の3要素からなるものである。たとえば原子力発電所について、「原発は安全性に関して疑問がある」という信念や知識をもつ人は、原発建設は「このましくない」という感情をいだき、反対運動に参加するなどの行動傾向をもつだろう。この3要素からなる全体がその人の原発に対する社会的態度を構成している。このような態度がいったん形成されると、以後その態度は新たにはいっていくる情報に対してフィルターとして機能して、その態度の持続をはかろうとする。先の例でいえば、原発は危険だということに関連した情報は容易にうけいれ、原発がなければ夏の電力ピーク時にクーラーがとまることもやむをえないといった情報は無視する方向にはたらく。
こうした態度がどのようにして形成されるかについては、いろいろな考え方があるが、たとえば次のような例を考えてみよう。ある日本人が米国に滞在中にある家庭で世話になった。夫婦ともたいへんな親日家にみえ、気持ちよく滞在できたが、帰りがけに道でその家の6歳になる子供とであったのでさよならをいうと、その子は顔をしかめて「イエロー」といったという。黄色人種に対する偏見や差別が大人ではカムフラージュされていても、大人のそのかくされた社会的態度に子供はいつのまにか同化し、そのような人種差別的な態度を醸成したものと考えられる。このような例に態度形成の一端をうかがうことができそうである。
| 1. | 説得的コミュニケーションと態度変化 |
先にもみたように、態度はそれを存続させる方向にむかって情報を取捨選択するように機能するものであるから、いったん形成された態度を変化させることは一般にはむずかしい。これは、ある思想・信条の持ち主や宗教帰依者の洗脳がむずかしいことにも対応する。しかし、それまで一貫して保守党に投票していた人が、ある政治演説をきいたりテレビの報道をみたりするうちに、次の選挙では革新党に投票するようなことも実際にはおこる。このような態度変化がどのようにして生じるかは、社会心理学者の研究意欲をかきたてるテーマのひとつであった。
人の態度変化をうながす試みのひとつは説得であり、その目的でおこなわれるコミュニケーションを説得的コミュニケーションという。政治演説も、車のテレビ・コマーシャルも、前者は政治的態度を変化させるための、後者は購買行動を変化させるための説得的コミュニケーションと考えることができる。この場合、まずコミュニケーションの送り手とその説得効果に関する要因がいくつか考えられる。たとえば、送り手の信憑(しんぴょう)性(専門性と信頼性)、魅力、説得意図などである。受け手が当該問題にそれほど関心が高くない場合(それに対する態度が明確でない場合)、説得的コミュニケーションの内容が同一でも、一般に信憑性の高い人からのコミュニケーションのほうが説得効果は大きいといわれている。しかし、受け手が当該問題に関心が高い場合には、送り手の信憑性の効果はそれほど大きくないことも知られている。
送り手の魅力の効果については、著名人をコマーシャルに登場させて製品の宣伝をさせる場合がわかりやすい。また、説得意図については、あからさまな説得意図がある場合には説得効果がへることが知られている。
次にコミュニケーションの内容である。たとえば、説得する方向を支持するだけの一面的コミュニケーションと、支持・反対の両方を提示して説得をこころみる両面的コミュニケーションのいずれが説得効果が高いかに関する研究がある。日本のテレビ・コマーシャルは自社製品の長所だけを宣伝する一面的コミュニケーションが多いが、外国では、両面的コミュニケーションがかなりみられるという(スウェーデンのVOLVO社のコマーシャルは、自社の自動車が高価であることのデメリットをみとめつつ、その安全性と堅牢(けんろう)性のメリットを主張する内容になっていたが、これなどは後者の例である)。またこれは、受け手の知性度と関連していて、他の条件が同一ならば、受け手の知性が低い場合には一面的コミュニケーションが、受け手の知性が高い場合には両面的コミュニケーションが効果をもちやすいという。さらに、コミュニケーションの内容が受け手の恐怖を強くひきおこし、説得に応じたときにその恐怖を低減できる可能性がある場合には(自動車の事故の危険をうったえて、自動車保険に勧誘するような場合など)、高い説得効果がえられるという。これらは現に訪問セールスなどにその具体例をみることができるだろう。
| 2. | 態度変化と認知の斉合性 |
態度の構成要素には行動傾向がふくまれている。それゆえ、態度変化がおこれば一般的には行動傾向も変化すると予想される。しかし、説得的コミュニケーションによって、特定事象に対する認知ないし意見は一時的に変化しても、感情や行動傾向までは変化しない場合も少なくない。それほどいったん形成された態度は頑強だということであり、時間が経過するうちに、先には確かに変化したはずの認知が以前に逆戻りすることさえある。そこで、逆に対象への感情や行動傾向が変化した場合に、態度(認知)がどのように変化するかという逆向きの研究が必要になってくるが、これにとりくんだのが認知の斉合性を問題にする一連の研究者たちである。
そのひとりは「対人関係の認知」の項でとりあげたハイダーであり、彼の主張しているP–O–Xモデル(バランス理論ともいわれる)が現在の文脈にそのまま該当する。PとOの人間関係が強まる方向にあるならば、P–Xの関係の認知、あるいはO–Xの関係の認知が、P–O–Xの関係の全体的なバランスがとれる方向に変化すると予想されるだろう。C.E.オズグッドとP.H.タネンバウムもハイダーの考えによく似た適合性理論を提唱する。これはハイダーのモデルにおけるP–X、O–Xの認知や評価にその強度(たとえば対象の好き嫌いや重要性の程度)を導入して、どのように3項関係の認知の斉合性がはかられるかをより正確に予測することを意図したものである。
フェスティンガーの提唱した認知的不協和理論も、態度変化における認知の斉合性に関係している。彼は2つの認知の間の関係を、協和的、不協和的、無関連の3種類にわける。そして人が不協和な関係にある認知を同時に2つもつと認知的不協和が生じて心理的緊張がおこり、それを解消する方向に圧力がかかると考えた。不協和を解消ないし低減するには、不協和な関係にある認知をかえる、協和的関係の認知を新たにふやす、協和的関係にある認知の重みづけをます、などが考えられ、フェスティンガーのおこなった実験によれば、実際に被験者は予想された方向に認知、つまり態度をかえたという。興味深いのは、この認知的不協和理論にしたがえば、自分の態度に反した行動をとった場合には、かえってその行動に合致した方向に態度が変化するという予測がなりたつこと、さらに、複数の選択可能性の中から1つをえらんだ場合、えらんだものの魅力は以前よりも高くなり、えらばれなかったものの魅力はかえって減じるという予測がなりたつことである。そして調査結果はフェスティンガーの予測をほぼ裏づけるものであった。
| 3. | 説得に対する受け手の抵抗 |
説得的コミュニケーションのところでも若干ふれたが、説得の試みはしばしば失敗する。それはコミュニケーションの受け手が態度変化へのさまざまな「防衛」をはりめぐらすからである。たとえば、恐怖が喚起されても、それをまぬがれる具体的方策がみいだせないときにはかえって態度は変化しないとか、あるいは、ある話題に関して説得的コミュニケーションがあたえられることをあらかじめ予告しておくと、態度変化がはばまれるなどにそれがあらわれている。これらの諸事実も、総体としてみれば、個人の認知・感情・行動傾向を整合的にたもとうとする態度本来の機能によると考えることができるだろう。
| VI. | 集合行動 |
集合行動とは、第三者的にみれば、不特定多数の人たちの集合(マス)においてなりたつ社会的現象であるが、そこにまきこまれた個人の側からみれば、その集合(マス)に規定され、みずからマス(集合)の匿名的な一員としてとる種々の行動をさしている。これは、ある人が所属集団内でとる規範的行動や役割期待にのっとった一連の行動とは明らかにことなるものである。このような集合行動には、流言、デマ、流行などのほか、暴動時や災害時にみられるモッブ的な群集行動や、試合見物の観衆のとる行動、あるいは世論や投票行動などがふくまれる。ここでは流言と流行をとりあげてみよう。
| 1. | 流言 |
流言は、事実ではないある話題が人づてに急速な広がりをみせ、それにまきこまれた不特定多数の人たちの感情を一定の方向にかたどって、ある型の行動にかりたてる自然発生的な社会的現象である。その伝播(でんぱ)経路や範囲を予測したり追跡したりすることはむずかしく、流言にまきこまれている個人についても、自分がその過程に関与していると自覚することはほとんどないといってよい。昭和50年代前半の一時期に急速に全国にひろまった「口裂け女」の流言などは、たしかに「根も葉もない事実無根の風説」としての流言といえるかもしれないが、たいていは戦争や震災などの現実的な恐怖や、地震予知や経済恐慌などに関連したなんらかの社会的不安を背景にして生じるものである。実際、第1次オイル・ショックのころに某町で発生した信用金庫が倒産するとの流言は、トイレット・ペーパーの買い占め騒動など、オイル・ショックのもたらした不安定な社会・経済的状況を背景に生じたものであった。
流言がひろがるときの個人に注目してみると、ある個人は他者からつたえられるその話題にとびつくだけの感度(興味、関心)を有し、しかも場合によってはつたわってきた内容を増幅して(尾ひれをつけて)他者につたえるような機能をもち、さらに、それがすばやくほかの人に伝播するような外的条件(人が密集しているなどの)を保持している必要がある。流言の発端はなにげない話であることが多く、それが人づてにつたえられる過程で脚色され、尾ひれがついたり物語性をおびたりしていくようである。ほかの人からつたえられた内容を各自が正確に別の人につたえるかぎり、流言はひろがらないといってよい。
流言形成の個人的条件を整理してみると、(1)あらかじめ共通の関心をもっている潜在的流言集団の一員であること。これはその個人が流言の話題にとびつくための必要条件である。(2)取得した情報を能動的に、尾ひれをつけてほかの人につたえてしまう動機があること。これには戦争や災害時の恐怖、個人の深層における願望、不安、憎悪、人をおどろかせたりすることで満足をえたいという欲望、見栄や自己顕示欲などが考えられる。
なお、デマは人々をまどわせたり一群の人たちを中傷したりするために、ある特定の人または集団がありもしない情報を意図的にながす政治的な操作のことであり、自然発生的に生じる流言とは区別される必要がある。
| 2. | 流行 |
流行は、ある社会において従来とはことなる行動様式が特定の人たちにあらわれ、それが一般化されて普及していくさまざまな過程のうちにふくまれるものであり、その特殊な形態といってよい。その目新しい行動様式が短期間に急速にひろまり、また急速にあきられて、すたれてしまうというような特有の性格をもっているのである。
流行は昭和40年代半ばに大流行したミニ・スカートのようなファッションをはじめ、髪型、髪の色(最近の茶髪などに典型的)、靴の形、バッグ、玩具、飲料、自動車など多岐にわたる。あるときに流行して定着していったもの(たとえば女性のショートカットなど)をのぞけば、一般に流行には、ひろまってあきられ、すたれてしまう減衰型と、周期的にくりかえされる循環型がある。
ファッションを例にとって流行の過程を考えてみると、一般にはまず潜在期がある。つまりごく少数の人たちが新しいファッションをためしている時期で、これがのちに流行になるかどうかはこの時点ではまだわからない。
次に初発期がある。これは新しいファッションの存在がかなりの程度知られ、しだいに同調者があらわれる時期であるが、まだ高級品売場にしかおかれていない時期に対応する。
次は急騰(きゅうとう)期である。これは新しいファッションへの抵抗や警戒が弱まり、このファッションの採用者が激増する時期にあたる。ここまでくると個人間相互の影響力も強まり、同調傾向によって流行がひろがる方向に自動作用がはたらく。ファッションの場合には、質や値をおとしても大量販売がめざされるのがこの時期にあたる。
次は停滞期である。すでに流行は頭打ちになってそれ以上の広がりをみせなくなる時期がこれで、ファッションの場合には、この時期にすでに次の初発期がはじまっているとみてよい。
最後は衰退期である。これはこの流行が明らかにピークをすぎ、これを採用する者よりも、これを廃棄してほかのファッションにうつる者のほうが多くなる時期にあたる。
以上の流行の過程のどの時期に各個人は参加するのかという観点から、流行参加者を類型化してみると、(1)先駆者、(2)初期同調者、(3)初期追随者、(4)後期追随者、(5)落後者に区別することができる。また、このような参加の時期の違いは、参加の動機の違い(めだちたい人とめだちたくない人)や、社会的圧力への同調傾向の違い(自分がそうしたいという人と、皆がそうしているから自分もするという人)にもとめることができるようである。
| VII. | 社会的影響 |
社会心理学の領域としての「社会的影響」は、個人のもつ信念や態度あるいは行動が他者の存在や他者とのコミュニケーションによって影響をうける過程のことをいう。「集団と個人」の項で簡単にふれた集団圧力や集団規範、「社会的態度」の項においてみた態度変化もそこにふくまれるが、ここでは同調行動、権威の服従を中心に概観してみよう。
| 1. | 同調行動 |
社会問題化している「いじめ」において、クラスメートからの「しかと(無視)」がそれを身にこうむる生徒にとってじゅうぶん「いじめ」になることからもわかるように、ある集団に所属する個人にとって、ほかの成員のしめす態度や言動の影響はきわめて大きい。集団規範からの逸脱が排除や「村八分」をまねくことはいうにおよばず、集団の中でめだちすぎることも、「でる杭(くい)」とみられて、ほかの成員からなんらかの制裁をまねきやすい。視点をかえれば、これは個人の信念や態度や行動を集団の基準に合致させる方向に圧力がくわわっているということである。同調とは、そのような圧力のもとで個人がその信念や態度や行動を集団基準の方向に変化させることにほかならない。要するに、集団内では「右へならえ」の行動が生じやすいということである。
アッシュは集団圧力下における同調行動を、次のような実験をとおして明らかにした。つまり彼は、線分の長さの異同の判断をもとめるというふれこみで被験者をつのり、標準刺激と同じ長さの線分と、それより長い、あるいは短い線分を次々に提示し、被験者に標準刺激との異同をこたえさせた。被験者は8人いたが、そのうち7人はさくらで真の被験者は1人だけであった。さくらは実験者のだすサインにしたがって、全員そろって実際とはちがう長さの判断をくだすことを事前にきめてあった。このような状況下で次々に長さの判断をさせていくと、真の被験者はほかの成員の一致した判断(真実とはちがう判断)の圧力に屈してしまい、最終的には自分の判断をほかの被験者のそれに同調させてしまった。この簡単な実験は、集団圧力がいかに容易に個人の同調行動をみちびくかをしめしている。
同調にはいくつか種類がある。今の例のように、自分のくだす判断を「ただしい」とは思わないままに周囲に同調する場合を「追従」という。これはほかから罰や制裁をうけることを回避する目的で表面的に同調している場合であり、同調する個人の私的な信念や態度は変化しないことが多い。この場合の社会的影響は、個人に対して集団基準や集団規範に合致した行動をとるようにはたらいているところから、規範的影響ともよばれる。
次に、ある人を尊敬したり高く評価したりしているときに、その人物のようでありたいという他者への同一化から、おのずと自分の信念、態度、行動が変化していく場合の同調がある。さらに影響をあたえる人の主義・主張に心酔したり共鳴したりして、自分の信念、態度、行動をかえる場合の同調もある。宗教的回心などはその典型である。あとの2つは他者の意見、主張、判断、行動を参照して、自らの信念システムを変化させ、自らがより適切な判断や行動をするように変化することである。そこから、これらは情報的影響ともよばれる。
| 2. | 権威への服従 |
集団圧力のもとで同調を余儀なくされる場合でも、個人はその集団にはたらいている目にみえない規範的な力を感じておのずから同調するのであって、命令されてしたがっているわけではない。これに対して、軍事下における上官からの命令のように、強大な権威や権力を背景に有無をいわさず服従を強いられる場合もある。ナチスのユダヤ人強制収容所において大量虐殺の命令にしたがった部下の例がその典型である。この場合のように、個人の信念とは矛盾する命令を上官からうけ、しかもその命令の拒否が自らの存在をあやうくするというようなとき、個人はどのように考え、行動するのだろうか。
これに関してS.ミルグラムは次のような実験をおこなっている。すなわち、「学習におよぼす罰の効果」をしらべるという名目で被験者があつめられ、学習者になる人と、教師役になる人にふりわけられるが、学習者は実はさくらである。教師役の真の被験者は、学習者がまちがえるたびに、罰として15~450Vまで30段階あるスイッチを1段階ずつあげて電気ショックをあたえるようにいわれる。実験者は教師役の被験者の背後にすわって実験経過をみまもっている。被験者がスイッチを操作しても実際に電気がおくられるわけではないが、さくらの学習者は、あたかも電気ショックが実際にあたえられたかのようにうめいたり、身をよじったり、抗議したり、さけんだりする。教師役の被験者が電圧をあげるのをためらったり実験をやめたいといいだしたときには、実験者は頑として実験をつづけるように説得し、それでも被験者が実験の継続を強く拒否した場合に、ようやく実験がうちきられることになっている。
実験の結果はおどろくべきもので、200Vまでは被験者全員がスイッチをあげ、そして3人に2人の被験者は、強い心理的葛藤(かっとう)にさいなまれながらも、結局は最高の450Vの電気ショックをあたえた。この実験結果は学習者の声がすぐ隣からきこえ、しかしそのようすはみえないという条件下でえられたものである。学習者がそばにいてみえる条件や、教師役が学習者の腕をおさえながら電圧をあげる条件についていえば、最大目盛りまであげる被験者の比率はかなりさがったとはいえ、やはりかなりの被験者が(腕をおさえる条件では30%)450Vまで電気ショックをあたえつづけた。
この実験は、いったん命令システムにくみこまれてしまうと、人は心理的葛藤があっても命令された役割行動を実行してしまう傾向にあることをおしえている。その場合、人は最終責任を命令をくだす人に帰属し、自分は命令されたものを実行したにすぎないと考えて責任を回避したり、自分は命令者の代理人になったにすぎないと思いこんだりする。そして命令者の言動にだけ注意をこらし、犠牲者には注意をむけなくなっていくのである。
| 3. | 返報性 |
これも規範的な社会的影響力のひとつと考えられる。われわれは他者からなにかよいものをもらったり、価値あるものをうけとったりした場合、応分の「お返し」をしなければならないと考えるし、逆に他者になにかをあたえたり価値あることをほどこした場合には、相手からなんらかの「お返し」がきて当然という期待をもつ。このように、対人関係の中でギブ・アンド・テイクの収支をたもつように動機づけられることを返報性の規範とよぶ。この規範は人に強い心理的圧力と感じられ、その結果、人の行動に強い影響力をおよぼす。そこから逆に、この心理的圧力を利用して他者の行動を自分の意図した方向にみちびくようなこともおこってくる。恩恵をあたえたり恩義を売ったりして、その「お返し」として相手から期待していた行動をひきだすという場合である。
あからさまな恩恵や恩義でなくとも、自己開示のような一方からの働きかけでさえ、対人関係の中では開示をうけた相手の「返報性の規範」を刺激し、相手からの開示がおこなわれやすくなる。そうしてみると、この返報性は個人の行動におよぼす影響としてはかなり強力なものであり、日常の対人関係をかなりの程度支配しているものだといってよいだろう。
| VIII. | その他 |
ここではとりあげなかったが、社会心理学においてとりあげられる今日的な論題としては、ほかに社会的自己を中心にした自己の問題、帰属理論との関連で話題になる社会的援助行動の問題、コミュニケーションと対人魅力の問題、競争と協同の問題(→ 社会的動機付け)などがある。これらについては、それぞれの項目を参照。
| IX. | 社会心理学の方法 |
社会心理学の研究方法は調査法、観察法、実験法に大別され、さらに質問紙作成、インタビュー(聞き取り調査)、面接、データ分析、統計処理などの具体的な方法に細分化されるが、ここでは研究対象と方法の結びつきを念頭においた大まかな整理をしてみよう。
第1に「現地調査」研究がある。たとえば、阪神・淡路大地震時にボランティアとして被災者とともに生活しながら、そこにおける人々の動態を観察したり聞き取り調査をしたりするというように、特定の現地におもむき、そこに生きる住民に密着してその意識や態度や行動を調査・研究する場合である。「村おこし町おこし」運動や過疎地、農山村、漁村などの地域における住民の社会心理学的研究などもこれに属する。
さらにこの現地調査研究は、研究目的をしぼりこんで現地にでかけ、短期間に資料収集する場合と、研究者が現地にすみこんで、むしろ問題発見的に研究を展開する場合とにわけることができる。とくに後者は、地道ではあるが、心理学的リアリティをふまえた研究という観点からはもっとも社会心理学らしい研究といえる。これまで、変数の厳密な統制という見地から、社会心理学では抽象化されモデル化された実験室事態がとりあげられる傾向にあったが、近年、社会的要請ともあいまって、この現地調査研究がふえつつあるのはこのましい傾向である。
第2は意識調査研究で、投票行動の予測にもちいられる政治意識調査や、生活意識調査など、ひろい地域の住民(国民全体や県民全体など)の意識動向を調査する目的でおこなわれる。これには対象となる母集団全体を調査する悉皆(しっかい)調査と、母集団の動向を標本から推計する標本抽出調査の区別があり、後者の場合にはランダム・サンプリングと統計的推計にうったえる方法がとられるが、抽出された標本が母集団をどれぐらいよく代表しているかが問題になる(→ 統計学の「統計の方法」)。また、調査用紙を郵送し記入してもらって回収する方法や、個別に聞き取り訪問調査をおこなう場合など、資料収集にもいろいろなやり方があり、対象の範囲と関連する資料収集のコストおよび回答の性質と確度の観点から、その方法がつかいわけられる。
第3は現場研究で、企業や学校など特定の社会的単位を対象とし、そこにおもむいて面接や質問紙調査をおこなう場合がこれにあたる。この場合も調査対象となる企業や学校など、その現場に固有の問題を調査する目的でのぞむ場合と、その単位をより一般的な母集団の標本としてあつかう場合とにわかれる。
第4は実験研究で、その多くは先のミルグラムの実験のように、実験室実験である。ここでは研究者があらかじめ人為的に設定した状況下で、研究者=実験者が意図的に実験変数を操作することによって、その影響がしらべられる。この場合、研究者の設定した状況が、その研究者が問題にしたい現実の社会心理的問題をどの程度よく反映しているか、その心理学的妥当性がじゅうぶんに吟味されなければならない。
そのほか、臨床社会心理学、発達社会心理学、教育社会心理学、応用社会心理学、あるいは社会心理学の比較文化的アプローチなど、近年、学際領域の研究や実践的な研究が盛んになるにしたがって、それぞれの領域の研究に固有の方法が考案され、洗練されるようになってきている。