ベートーベン,L.van
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ベートーベン,L.van
I. プロローグ

1770~1827 ドイツの作曲家。西洋音楽史における巨匠。

1770年12月にケルン選帝侯の城下町ボンで生まれ、経済的にはめぐまれないが、精神的刺激に富んだ環境にそだつ。おさないころから楽才をあらわし、選帝侯の宮廷楽団の歌手をしていた父ヨハンに、ときおり気まぐれな訓練をうけた。89年、アルコール依存症の父にかわって家計をささえるため、宮廷楽師となる。

ドイツの作曲家クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェの指導のもとに、初期の作品を作曲。なかでも、神聖ローマ帝国皇帝の死に際して書かれた葬送カンタータ「皇帝ヨーゼフ2世の死をいたむカンタータ」(1790)で非凡な才能をみせた。そこで後援者のワルトシュタイン伯を中心に青年ベートーベンをウィーンへおくってモーツァルトに師事させる計画がもちあがる。91年のモーツァルトの死去により、この計画はとりやめになったが、ベートーベンは92年にオーストリアのウィーンへいき、作曲家ハイドンに弟子入りをする。

ウィーンではピアノの即興演奏で貴族の音楽愛好家を驚嘆させ、ピアニストとして社交界の花形となる。また複数の楽譜出版業者と契約し、その条件も年ごとに有利になっていった。1世代前のモーツァルトは貴族に雇用されることなく、定職のない音楽家として生活苦とたたかわなければならなかったが、その10年後には楽譜の出版市場が拡大したことから、ベートーベンはフリーランスの音楽家としてじゅうぶんに暮らしていくことができた。作曲面では、大バッハの2男カール・フィリップ・エマヌエルの「感情過多様式」と、ウィーンの聴衆には洗練されすぎていたモーツァルトの様式の中間的作風をとった。この時代には、「悲愴」(1798)などの初期のピアノ・ソナタが書かれている。

1800年に弦と管のための七重奏曲・変ホ長調作品20を作曲したが、19世紀に入るともはやこのような楽節を次々とならべた構成力にとぼしい作品は書かなくなり、関心はハイドンとモーツァルトがのこした新しい音楽手法を洗練させることへむけられた。ベートーベンは「ハイドンからは何もまなばなかった」と誇張気味に主張している。たしかに師匠ハイドンにかくれてドイツの作曲家アルブレヒツベルガーに指導をもとめたこともあるがその言葉に反して、交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、ソナタなど主要な器楽曲は、すべて彼がすっかりウィーン古典派様式に同化していたことを物語っている。

今日もっとも有名なベートーベン作品のほとんどは、交響曲第3番「英雄」(1803着手、05初演)から交響曲第8番(1812)までの10年間に書かれている。この10年間は「英雄」の時代とよばれ、06~08年をとくに「傑作の森」とよぶこともある。

ベートーベンの名声はこのころピークに達するが、1798年に最初の兆候が出た聴覚障害が悪化し、人との交際をさけてひきこもりがちになる。また家を転々とかえるようになり、夏はウィーンの郊外、とくにハイリゲンシュタットですごし、秋になると市内へもどってくる生活パターンができあがる。1802年、有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を2人の弟にあてて執筆。この手紙の中で、聴覚がうしなわれていく苦悩をつづっている。05年以後、ベートーベンの奇行をつたえるエピソードがふえ、人前で公開演奏をする機会はめっきり少なくなり、14年の演奏会が最後になった。

ベートーベンはつねに恋をしていた。友人の間では、そのうわさが絶えずささやかれたが、彼の相手はいつでも身分違いの貴族女性か既婚婦人で、手のとどかない高嶺の花であった。1812年に書かれたとされる「不滅の恋人」にあてた有名な手紙(おそらく発送されなかった)には、恋の煩悶(はんもん)がつづられている。彼の求愛にこたえた唯一の女性かもしれないこの「恋人」は、だれだったのか。この長年のなぞは、1977年にようやく、アメリカの音楽学者メイナード・ソロモンの研究によって、フランクフルトの商人の妻で4児の母アントニエ・ブレンターノであるとほぼ決着がつけられた。容易に察しのつくとおり、ベートーベンは道徳観と結婚に対する不安のため、彼女からにげだしている。

1815年、弟カスパー・カールが死去し、ベートーベンはのこされた9歳の息子カールの養育権をめぐってその母とあらそう。多額の費用をつぎこんだ裁判は当初、母親側に有利な裁定をくだしたが、20年には有力なパトロンのルドルフ大公の仲介のおかげで、ベートーベンが甥(おい)カールの養育権をかちとった。しかしベートーベンは、理想的な保護者ではなかったらしい。彼と甥との衝突は日増しにはげしくなり、ついに26年にはカールが自殺未遂をおこすまでになった。

ベートーベンの聴覚は1818年までにほぼ完全にうしなわれ、来客が用件を書くための小型の「会話帳」がコミュニケーションの手段となった。交際する相手はかぎられ、その人数もしだいに少なくなっていった。24年の「荘厳ミサ曲」の部分初演(4月7日)と交響曲第9番の初演(5月7日)をのぞくと、一握りの仲間だけが彼の音楽を盛んに演奏するにすぎなかった。しかし名声はあいかわらず高く、晩年の病床には見舞いの品と手紙が山のようにとどいた。27年3月26日、ウィーンで死去。葬送の行列を数万の市民がみおくった。