| ベートーベン,L.van | 項目ビュー | ||||
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| II. | 代表作 |
ベートーベンの主要作品には、9曲の交響曲、7曲の協奏曲(うち5曲がピアノ協奏曲)、17曲の弦楽四重奏曲、32曲のピアノ・ソナタ、10曲のバイオリン・ソナタ、5曲のチェロ・ソナタ、唯一のオペラ「フィデリオ」、2曲のミサ曲、数曲の演奏会用序曲、それに変ロ長調「大公」(1811)などのピアノ三重奏曲や、多数のピアノ変奏曲がある。
ベートーベンの音楽は一般的には古典派からロマン派への橋渡しをしたといわれてきた。その創作期は、3つの時期に区分され、それぞれの時期はほぼ同じ長さとされる。しかし近年では、彼をウィーン古典派様式を代表する最後の大作曲家とみる見方が有力である。彼は人生における2度の転機に、当時台頭しつつあったロマン主義の美学に接近していったのではなく、むしろそれに背をむけ、もっぱらハイドンとモーツァルトの遺産の新たなる活用に集中していったのである。ウィーン時代には、弦楽四重奏曲のような古典派様式による作品群を書いた時期と、歌曲「アデーライデ」(1795)のようなイタリア風の自由な構造の作品群を生みだした時期が交互にあらわれる。
1802年、友人との対話の中でベートーベンは自作に「新しい方法」を導入したと宣言しているが、この新しい方法とは、ウィーン古典派の伝統への1回目の回帰を明らかにする証拠にほかならない。すなわち、この年が1回目の転機にあたる。12年までの10年間の成果はたしかに英雄的な偉業には違いないが、作品自体はハイドンやモーツァルトの切りつめた音楽形式を拡大したものにすぎない。それは、交響曲「英雄」(1804)やピアノ協奏曲第5番「皇帝」(1809)のように、先例のない大規模な作品においても、交響曲第5番(1808年。日本では「運命」とよばれる)やピアノ・ソナタ「熱情」作品57のように、圧縮された形式の作品においても違いがない。ベートーベンはこれらの作品で、集約・統合された主題と、対照的な2つの調を両軸とする和声を基盤とする様式が、作品に目ざましい表現力をあたえられることを立証したのである。
1812年、交響曲第8番をしあげた虚脱感と、「不滅の恋人」との望みのない恋愛のため、ベートーベンは不安定な精神状態におちいり、作曲のペンはばったり止まった。数少ない作品には連作歌曲「はるかなる恋人に」作品98(1816)やピアノ・ソナタ・イ長調作品101(1816)などがあり、1790年代のゆるやかな楽曲構造を再度とりあげて磨きをかけている点で、実験的な色合いがこい。この時代にわずかに書かれたベートーベンの連作歌曲は、1曲が完全終止せずに次の曲につながていく形式をとる。この形式は、次世代のロマン派の作曲家にもっとも直接的な影響をあたえ、その顕著な例は、ドイツの作曲家シューマンの連作歌曲にみられる。
1818年、ふたたび古典派の様式にたちかえり、堅固な構造の壮大な様式で作曲しはじめる。その変化は、前例のない長さと難解な内容をもつピアノ・ソナタ・変ロ長調作品106「ハンマークラビア」によってしめされた。
晩年には、古典派によくみられた6曲を1セットとする作品や2曲組の作品が少なくなり、個々の作品がそれぞれ独自の個性をもつようになる。後世の作曲家たちは、こうした個性に感嘆したが、ベートーベンほどの個性をきずきあげることはなかなかできなかった。交響曲第9番と「荘厳ミサ曲」は啓蒙思想にもとづいて、すべてをおおらかにつつみこむ人道主義的理想を表現している。同じように高潔な理想をえがいて10年前に書かれたオペラ「フィデリオ」(1814)よりも、さらに人の心をうごかさずにはおかないのである。
ベートーベンの後期様式は私的で個人的な性格を強め、1824~26年に書かれた5曲の弦楽四重奏曲は晩年の孤独や達観を色濃く反映している。5曲のうち最後の2曲は、作曲依頼なしに自発的に作曲され、これは当時としては異例のことだった。これら5曲で、ベートーベンは大衆性と学究的知性、または平易なユーモアと高尚な洗練とを理想的な形で統合させた。後期の弦楽四重奏曲は、他ジャンルにおける多くのベートーベン作品と同様、作曲当時すでに他人には真似のできない孤高の傑作とみなされ、今日にいたるまで他の音楽作品の価値を判定する尺度とされている。
ベートーベンは作曲に際して何度もスケッチ(下書き)を書いた。これは一生涯かわらなかったが、年をへるとともにその重要性がました。彼が屋外で紙切れや手帳に書きつけたメモ、室内でノートにしるしたスケッチは7000点以上にのぼり、西洋音楽史上、屈指の貴重な音楽創作のドキュメントとなった。